前回からの続き
エペソ4:15節「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。」とありますように、
その人への愛だけで、その人に真理を語ることをしないこと、また、同時に、その人に真理を語るだけで、その人への愛のないこと、この両極端ではなく、主にあって、その人への愛をもって真理を語ることを聖書は教えているのです。
その目的は、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するためであると、聖書は教えているのです。
そして、ある程度の信頼関係がある信徒の方々は対して、そのことを実践し始めると、私が思っていた通り、予測して通りのことが次々と起こったのです。
それは、船堀の教会の信徒の人たちの中から、「若木先生は、愛がない」、「若木先生は、私をさばいた」、「若木先生は、私を非難した」、「若木先生は、私を傷つけた」などと言われ始めるようになったのです。
でも、自分の潜在意識にある心の内面のメカニズムである、「神からの栄誉、賞賛よりも、人からの栄誉、賞賛を求めている」ということを、イエス様によって知らされ、気づかされたことと、
イエス様の励ましによって、そのミニストリー(奉仕)を継続していく内に、徐々に、「若木先生は、私たちを建て上げるために、私たちを生かすために、私たちを成長させるために、聖書のみことばに基づいて、
主にあって、あえて、言いづらいこと、話しづらいこと、語りづらいことを言っているのよ」と、神様からの私を通して、すでに、そのような取り扱いを受けられて、
主にあって、私のことを理解されるようになった信徒の方々からのサポートを受けるように導かれていったのです。
このようなミニストリーをする前に、「私は、この人に対して、否定的に引き落とそうとして関わろうとしているのだろうか。それとも、肯定的に建て上げようとして関わろうとしているのだろうか」と、主にある自己吟味の時を持つように心がけています。
さらに、そのミニストリーをする時に、その人の行いによらない、主にある、その人の存在価値を認め尊び、十分な説明を相手にしているつもりではありますが、その人への理解において、まだまだ、不十分であることも体験的に味わっているのです。
また、ミニストリーの最中に、特に、霊的理解力の乏しい人に対して、時には、イラッとすることもあります。私は、未完成の工事中の牧師です。
私がその人に対して、主にあって、言いづらいこと、話しづらいこと、語りづらいことを語ったことに関して、理解と受容を示してくださる場合と、そうでない場合とが、現実的にはありますが、それでも、試行錯誤しながらも、
人からの栄誉、賞賛ではなく、神からの栄誉、賞賛を求めていく者でありたいと願っています。現在では、このようなミニストリーを、船堀の教会以外の方々とも、対面であったり、ラインであったりなどして、関わりを持つように、主にあって導かれています。
現在も、主にあって、現場で体験的に、場数を踏みながら、訓練されているそのプロセスの歩みの中を通らされているのです。
そして、主が私を通して、言いづらいこと、話しづらいこと、語りづらいことを伝えている方々の中から、聖霊様の恵みによって、霊の耳と目が開かれて、
その人自身が、潜在意識にある心の内面のメカニズムに、気づきと理解と悟りとが与えられたことによって、徐々にではありますが、変化と成長の実を見せられて、主は、私を励ましてくださっておられるのです。
そして、このミニストリーの働きを継続して行く内に、私は、主によって、このミニストリーの働きに関して、あることに気づかされたのです。
次回に続く
ハレルヤ!
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