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11.主から遣わされた四番目の東京の江戸川区にある船堀の教会での懐かしい思い出(11)

前回からの続き


そして、主が私を通して、言いづらいこと、話しづらいこと、語りづらいことを伝えている方々の中から、聖霊様の恵みによって、霊の耳と目が開かれて、


その人自身が、潜在意識にある心の内面のメカニズムに、気づきと理解と悟りとが与えられたことによって、徐々にではありますが、変化と成長の実を見させられて、主は、私を励ましてくださっておられるのです。


そして、このミニストリーの働きを継続して行く内に、私は、主によって、このミニストリーの働きに関して、あることに気づかされたのです。


それは、このミニストリーは、その人の潜在意識にある心の内面のメカニズムに対する気づきと理解と悟りによる解放、癒しが、最終目的、ゴールではないということです。


このミニストリーは、主にあって、本来、その人が形造られている原型に向かって、神との交わりのデボーションを基にして、その人らしく変革され続けて行くこと、


そして、キリストのからだの一器官として、その人に神が授けておられる賜物を用いて、神からの使命に生かされ、互いに愛をもって仕え合い、主の栄光が現わされることを目的とするための尊い働きであるということに気づかされたのです。


イザヤ43:7節に、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。」とある通りです。


私は、イエス様と二人三脚で行う、この主からの使命、ミニストリーを、楽しみ、喜びとして、精神的なストレスはありつつも、イエス様に負っていただき、趣味のようにして行なっているのです。


まだ、自分の使命、ミニストリー(奉仕)がわからないでいるクリスチャンの方々に、神から私たちに授けられている賜物を行使しながら行う、


それぞれの役割、使命、ミニストリーの特徴は、趣味のようであると、機会のあるたびごとに、様々な人たちに分かち合っています。


神様は、このようにして、私の助け手としての妻である由起子さんを通して、長い年月を通して、私を、今も尚、取り扱ってくださっておられるのです。


神様が置かれた、牧師である私の見張り人としての一番鋭い存在が、私の助け手である妻の由起子さんなのです。


個人的に私は、他教会の牧師たちを観察していますと、私と同じく、神様が置かれた牧師の見張り人としての一番鋭い存在が、牧師夫人ではないだろうかと思わされています。


神様が、絶えず、忍耐をもって、由起子さんを通して、このことに関して、取り扱ってくださったことに大きな感謝をしているのです。


最後に、「若木先生は、愛がない」、「若木先生は、私をさばいた」、「若木先生は、私を非難した」、「若木先生は、私を傷つけた」などと、信徒の方々から言われ続けられてきたことに関して、


私の相談相手であり、カウンセラーであられるイエス様にお聞きしたことに対する、イエス様からの回答を得たことを分かち合いたいと思います。


癌などの手術を行う場合、医者が、メスなどの医療器具を用いて、からだを傷つけることがあります。そして、それは、痛みが伴うものです。


からだを傷つけるのは、癌細胞を取り除き、健康なからだに回復させて、癒やすためです。そして、その目的は、日常生活や、仕事に復帰できるようにするためです。


同じように、牧師や副牧師や宣教師や伝道師などの働き人たちが、聖霊様とともに、聖書のみことばを用いて、人の心を傷つけることがあります。そして、それは、心に痛みが伴うものです。


それは、心にある霊的癌細胞を取り除き、霊的な健康に回復させて、癒やすためです。そして、その目的は、その人を、神との交わりのデボーションを基として、キリストのからだの一器官として、


神から授けられた賜物を用いて、神から託された役割、使命に生きるようにさせるため、互いに愛をもって仕え合うようにさせて、主の栄光を現す生き方に導かれることにあることを示してくださったのです。


そして、そのことを裏付けるみことばも導かれたのです。


申命記32:39節「わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、また癒やす。」


ヨブ5:18節「神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが、御手で癒やしてくださるからだ。」


箴言20:30節「傷つくまで打てば、悪は取り除かれる。腹の底まで打ちたたけば。」


箴言27:5〜6節「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するより良い。愛する者が傷つけるのは誠実による。憎む者は多くの口づけでもてなす。」


エレミヤ18:4〜6節 陶器師が粘土で製作中の器は、彼の手で壊されたが、それを再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか。ー主のことばー。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」


ハレルヤ!

 
 
 

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