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18.主から遣わされた四番目の東京の江戸川区にある船堀の教会での懐かしい思い出(18)

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今回で、臨に関しては、最終回となります。


以前に、「私たち夫婦が喧嘩をしていたことで、臨を含め3人の子どもたちが心の傷を負っていたのだと、臨が回復途上にある時に、


2人の弟の気持ちも代弁して、私は聞かされたことがあった。」ということを分かち合いましたが、そのことに関して、最後に分かち合いたいと思います。


私の仕事の関係で、千葉県の香取市にある教会に、車で出かけていた時のことでありました。私と一緒に同行し、助手席に座っていた臨から、「お父さんとお母さんの喧嘩のことで、心が傷ついていたんだ」と、私は告げられたのです。


その時に、私は、臨との間におけるイエス・キリストの十字架による和解の時を持つようにと、聖霊様によって、促しを受けたのです。


それで、そのことを聞いた後、車を停車し、車中で、和解の時を持つように、聖霊様によって導かれたのです。


イエス・キリストの十字架による和解は、お互いの心が砕かれて、言い訳や弁明をするなどの自己防衛を一切捨てて、御霊によって、双方が、素直で正直な心に備えられていることが必須です。


詩篇51:17節「神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。」


イエス・キリストの十字架による和解は、双方が、被害者であるとともに、砕かれた霊、打たれ、砕かれた心を持ち合わせた加害者でもあるとの健全な認識を必要とします。


また、御霊の導きとともに、神のタイミングをも計算に入れないで、また、相手側の心の備えが十分に整えられてもいないのに、独りよがりに、自己満足を満たすために、


また、聖書のみことばが語っていることであるからと言って、自分の身勝手な時に、独断的にしようとして、和解に至っていない現実を、今までに何度も見て来ました。


片方の人は、自己満足していても、もう片方の人には、依然として、何らかの解せない思いや、わだかまりや、しこりが残っているものです。


また、どちらか一方が、被害者意識が余りにも強過ぎて、加害者意識が全くないのであれば、相手に対して、一方的に、怒り、憎しみ、さばき、ののしり、侮辱して、非難して、赦せない心や思いが満ちているので、イエス・キリストの十字架による和解は難しく、まだ、その時ではないのです。


この時、私と臨のどちらも、御霊によって、被害者意識とともに、加害者意識の健全な認識に導かれていました。つまり、御霊によって互いに、砕かれた霊、打たれ、砕かれた心に整えられていました。しかも、神のタイミングでもあったのです。


イザヤ53:3〜4節の「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。


まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」というみことばは、私たちの被害者としての心の傷を負ってくださるイエス・キリストの十字架の恵みを教えています。


また、イザヤ53:5〜6節の「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。


私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」というみことばは、私たちの加害者としての罪を負ってくださるイエス・キリストの十字架の恵みを教えています。


被害者としての心の傷と、加害者としての罪を負ってくださるイエス・キリストの十字架の恵みに基づいて、


私は、イエス様の十字架を見上げ、私は「父なる神様、私は夫婦喧嘩をして、臨に心の傷を与えました。この罪を認めます。


イエス様の血潮で赦してください。そして、イエス様が私の罪を負ってくださり赦してくださったことを信じます。また、臨の心の傷を癒してください。」と、祈りが導かれたのです。


そして、臨に、イエス様の十字架を見上げて、心を傷つけた私と母を赦す祈りをするようにと勧め、臨は、「父なる神様、両親の夫婦喧嘩を通して、私の心を傷つけた父と母を赦します。」と、祈りが導かれたのです。


今度は、臨に、イエス様の十字架を見上げて、私たち両親をさばいた加害者としての罪を告白するようにと促したのです。


臨は、「父なる神様、私は、両親をさばいた罪を認め、告白します。イエス様の十字架の血で赦してください。そして、イエス様が赦してくださったことを信じます。」と、祈りが導かれたのです。


そして、私は、「私たち両親をさばいた臨を赦します。」と、祈りを導いてくださったのです。


聖霊様によって、イエス様の十字架による和解の導き以来、私たち夫婦と臨との間の関係は、神様の愛とあわれみと恵みにより、


また、みことばの恵みにより、お互いに癒されて変えられたのです。また、お互いの心と思いの中にあった苦々しい思いからも解放されたのです。


ヤコブ5:15〜16節「信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒されるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」


ヘブル12:14〜15節「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。」


ハレルヤ!

 
 
 

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