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24.主から遣わされた四番目の東京の江戸川区にある船堀の教会での懐かしい思い出(24)

前回からの続き


このような一連の出来事を体験する1年前の1998年に、以前に分かち合いましたように、すでに、神様からH兄ご夫妻を通して、私への個人預言が与えられていたのです。


そして、これらの教会の分裂に伴う一連の出来事が、神様からH兄ご夫妻を通して、私への個人預言として与えられていた「ヨセフが監獄に入れられたように、これから、あなたの身にも同じようなことが起こります。」に関わる出来事であったのです。


でも、この時点では、個人預言の後半の部分の「それを嫌なこととして、嘆いてはいけません。それは良いことで、祝福だからです。しばらくの期間の後、そこから、救い出される時が来ます。」に関しては、依然として、まだ、神によって、私には隠されていたのです。


当時、「教会成長」と言うことばが流行っていて、弟子訓練に取り組む私を含め、多くの牧師たちと教会は、「強勢における成長」、「人数的増加の成長」を得られると思って、取り組んでいたように思います。


また、主の御名の栄光よりも、教会を大きく(人数的増加の成長)することで、私を含め、多くの牧師が、牧師と教会の名を上げ、牧師と教会が、栄光を横取りしようとしていたこともあったように思います。


創世記11:4節「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名を上げよう。われわれが地の前面に散らされるといけないから。」とありますように。


そして、私を初め、多くの牧師と教会が、マルコ9:33〜34節に、「一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。


来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。」と記されていますように、主の弟子たちと同じ、比較競争意識という肉の思いも抱いていたようにも思います。


また、私を初め、多くの牧師が、「〜しなければならない」、「〜してはいけない」、「〜であるべき」というような「律法主義的弟子訓練」をしていたようにも思います。


また、私を初め、多くの牧師が、「イエス様の弟子作り」ではなく、「牧師の弟子作り」をしていたようにも思います。


弟子訓練のテキストの学びを進めていけば、牧師も信徒も必ず、成長するものと思っていましたが、そうはならなかったのです。テキストの学びは進んでも、人は成長していかなかった、変わらなかったのです。


弟子訓練を推し進めていく中で、牧師と信徒のどちらにもある心の傷、福音化されていない肉に属する領域、聖書的に確立されていないアイデンティティ、


主の弟子として訓練されていくという聖書のみことばに対する不従順の罪、霊的権威に対する罪、弟子訓練の働きを憎むサタンと悪霊との霊的戦いなどにも気づかされるようになったのです。


その後、不思議なことに、そのことに関連して、聖霊様は、心の傷や福音化されていない肉の領域や、聖書的に確立されていないアイデンティティ、聖書のみことばに対する不従順の罪、


また、それらのことに伴う悪霊を扱う「チェンジング•ライフキャンプ」や、聖霊様とみことばによるカウンセリングの「エリヤハウス」の学びに導いてくださったのです。


ヨセフが監獄に入れられたことに対する神のみこころ、ご計画は、神のみがご存知で、ヨセフを初め、人には隠されたもので、知り得ない、理解不能な、理不尽なものでした。


ヨセフに対する神のみこころ、ご計画の一つは、それは、やがて、エジプト全土に七年間の大豊作がやってきて、その後、七年間の非常に激しい飢饉がやってくる。


そのため、神の選びの民であるイスラエルの神の民を飢饉から救うために、ヨセフをエジプトの王に次ぐ宰相としての立場に導いて、イスラエルの神の民を食糧危機から救うことにありました。


創世記50:20節「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」とある通りです。


つまり、ヨセフの2年以上における監獄体験の一つの理由は、神のみこころを果たさせるため、イスラエルの民を初め、多くの人が飢饉から救われて生かされるという神の尊い使命に導くために、


そのために、ヨセフをエジプトの王に次ぐ宰相の立場に導くための全人的に取り扱う準備期間であったということです。


次に、私の監獄体験期間からの救いと祝福を分かち合いたいと思います。


次回に続く


ハレルヤ!

 
 
 

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