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29.主から遣わされた四番目の東京の江戸川区にある船堀の教会での懐かしい思い出(29)

前回からの続き


つまり、イエス様の弟子訓練の意図は、弟子たちがみな、貧しい者、心の傷ついた者、捕らわれ人、囚人とされ、


自分の罪深さと、罪深い自分、自分の愛のなさと、愛のない自分、自分の弱さと、弱い自分、自分の愚かさと、愚かな自分、自分の霊的無知と、霊的無知な自分、自分の臆病さと、臆病な自分、自分の高慢さと、高慢な自分、


自分の不信仰と、不信仰な自分、自分の不従順と、不従順な自分、自分の無力さと、無力な自分、自分の無能さと、無能な自分を徹底的に体験的に通らせて、


気づかせ、わからさせて、自分ではなく、自分から解放されて、聖霊様に100%依存させることにあったのではないでしょうか。


このことから、私を初め、多くの牧師たちが、今まで取り組んできた弟子訓練は、決して、主にあって失敗ではなかったこと、いや、むしろ、主にあって成功であったことに気づかされたのです。


今まで取り組んできた弟子訓練を通して、私を初め、牧師たちも、宣教師たちも、伝道師たちも、信徒たちもみな、実は、イエス様からの弟子訓練を受けていたのです。


ただ、そのことに霊の目が閉ざされていて、そのことを知らなかっただけなのです。そのことに気づいていなかっただけなのです。


イエス様の弟子訓練の意図は、牧師である自らも、また、他の牧師も、宣教師も、伝道師も、信徒もみな、貧しい者、心の傷ついた者、捕らわれ人、囚人とされ、


己の罪深さと、罪深い己、己の愛のなさと、愛のない己、己の弱さと、弱い己、己の愚かさと、愚かな己、己の霊的無知と、霊的無知な己、己の臆病さと、臆病な己、己の高慢さと、高慢な己、己の不信仰と、不信仰な己、己の不従順と、不従順な己、


己の無力さと、無力な己、己の無能さと、無能な己を徹底的に体験的に通らせて、気づかせ、わからさせて、己を死(絶望)に至らせ、己ではなく、己から解放し、聖霊様に100%依存させる復活のいのち(希望)に至らせることにあったのではないでしょうか。


ゼカリヤ4:6節「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と、ある通りです。


弟子たちが、イエス様からの弟子訓練を受けて、貧しい者、心の傷ついた者、捕らわれ人、囚人とされ、その後、約束の聖霊様が降臨されて、聖霊様の油注ぎを受けて、神の国の働きに遣わされて行ったという霊的順番があったように、


私も、神からR牧師を通して受けた預言の「あなたは、癒しの働きをするようになります。ですから、癒しの働きをするようにしなさい。」という、この癒しの働きをする前に、先ず、自らが貧しい者、心の傷ついた者、捕らわれ人、囚人とされ、


それから、神である主の霊の油注ぎを受けられたイエス様によって、自らが癒しと解放の恵みを受けるという霊的順番があったことに、霊の目が開かれたのです。


Iサムエル記2:6〜7節「主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。」とありますように、


私が主によって生かされる前に、私は主によって殺され、私が主によって引き上げられる前に、私は主によってよみに下され、私が主によって富ませられる前に、私は主によって貧しくされ、私が主によって高くされる前に、私は主によって低くされるという霊的順番があったのです。


この癒しの働きをする前に、心の傷を抱え、福音化されていない肉に属する領域、また、怒りや憎しみや赦せない心の罪を抱いて苦しんでいる自らが、


イエス様の十字架による心の傷の癒しと、罪の赦しと、悪霊からの解放と自由を体験する必要があったのです。また、自らが、聖書的なアイデンティティーを悟る必要があったのです。


次に、H師ご夫妻の個人預言の後半部分の「それを嫌なこととして、嘆いてはいけません。それは良いことで、祝福だからです。しばらくの期間の後、そこから、救い出される時が来ます。」と、


R牧師の「あなたは、癒しの働きをするようになります。ですから、癒しの働きをするようにしなさい。」に関わる恵みを分かち合いたいと思います。


次回に続く


ハレルヤ!

 
 
 

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