94.主から遣わされた四番目の東京の江戸川区にある船堀の教会での懐かしい思い出(93)
- funaborigracechape
- 1 日前
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前回からの続き
S宣教師は、米国に帰国された後、同じ宣教団体の同労者との交わりの時を持たれ、聖霊の賜物の一つである異言に関する本を紹介されて読まれたそうです。
そして、S宣教師自身が、霊的に回復された理由が、聖霊の賜物の一つである異言にあることをN牧師に分かち合い、N牧師に、ある異言に関する本を渡されて、その本を読むように、そして、その本に書いてある通りに実践することを勧めたそうです。
それで、N牧師は、早速、その本を読まれて、その本に書いてある通りに実践してみたそうです。すると、ご自分の口に、異言が与えられたとのことです。
そして、N牧師は、奥様にも、その本を読むように、また、その本に書いてある通りに実践することを勧めたそうです。すると、奥様にも異言が与えられ、胃下垂が癒やされたそうです。
信徒の方々にも、同じように、その本を読むように、また、その本に書いてある通りに実践することを勧めると、信徒の方々にも異言が与えられ、ある人は、イボが消えたり、また、ある人は、皮膚病が癒やされたそうです。
私は、N牧師とは、これまでのような神学に関する話ではなく、思いも寄らぬ、聖霊の賜物の一つである異言に関するその話と恵みの証しを聞かされたのです。
それで、私も、これまで、個人的に、自室や、お風呂場や、車中や、散歩や、就寝時など、ことある毎に、異言での祈りや、異言での賛美をしていましたが、
異言に関して、異言の解き明かしがないこともあって、よくわからないでいたこともありましたので、率直に、N牧師に質問してみたのです。
それは、私は異言で語ったり、賛美したりすることも、現在もしていることではありますが、よくよく思い巡らして見ると、異言の解き明かしがないことで、
私の口から出る異言は、何を話しているのか、何を言っているのかがわからなかったことが、異言に関する一番の問題意識として、私は常々、持っていたのです。
勿論、Iコリント14:2節で、「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。」と、言われているように、「だれも理解できませんが」ということは知っていたのではありますが。
だから、そのようなわけで、その先輩のN牧師自身が、異言に関する本を読まれて、その本に書いてある通りに実践されて、異言が与えられたように、私にもそのような導きをして欲しいと、お願いをしたのです。
すると、私に異言を導くために勧められた方法は、私が、以前、韓国での弟子訓練のセミナーで教えられた異言の導きと全く同じものであったのです。
その先輩のN牧師の言われるまま、その牧師と一緒に、私も異言を語っていると、突然、思わぬ出来事が起きたのです。
次回に続く
ハレルヤ!
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