1.主からの最初の派遣先である小樽の教会における懐かしい思い出(1)
- funaborigracechape
- 2024年4月22日
- 読了時間: 3分
以前に、分かち合いましたが、名古屋のキリスト教書店で、店長から、「若木君、あなたを、店長候補として、これから指導します」と言われた時、
私が、名古屋のキリスト教書店の店長に召されているのかどうか、神のみこころを尋ね求めた時、みことばの示しは与えられなかったこと。
しかし、キリスト教書店に、求道者の方が来られた時に、関わりを持つように導かれるようになったこと。
また、母教会のS教会に、求道者の青年が来られた時に、自宅に招いて、一緒に食事をしたり、聖書の学びをするように導かれるようになったこと。
そして、聖霊様が、その青年に働かれて、救いのみわざが起こされることを通して、神様は、私を、キリスト教書店の店長としての召しではなく、牧師として召されているのではないかと思って、神学校の入学に導かれた経緯を証ししました。
ところが、私が、神学生の2年目頃から、心にある悩みを抱えるようになったのです。
そして、その時以来、そのことが未解決のままであったので、小樽の教会に赴任して、2年目頃まで、そのことに悩まされるようになったのです。
つまり、4年間、そのことが未解決のまま、悩まされながら、神学校で学び、小樽の教会で牧会していたのです。
私が心に抱えていた、その悩みとは、「私は、本当に牧師に召されているのだろうか。」という、「牧師としての召命感」に関することであったのです。
小樽の教会員に、「私は、牧師として召されているかどうか、わからず、悩んでいるので、お祈りください」と言えるような、プライドを捨てる謙遜さと、勇気を持ち合わせてはいなかったのです。
赴任してから2年目頃までは、毎週の日曜日の礼拝説教の準備が大変でした。説教が、日曜日の早朝になっても、完全には仕上がっておらず、超焦ったことが、どれほど多くあったことでしょうか。
そのような悩みを抱えている中で、「神様が、私を小樽の教会に牧師として赴任するに至るまで導いて来られたのだから、牧師であることは、主のみこころだ。」と、自分に言い聞かせてみたり、
「いや、いや、やっぱり、自分は牧師に召されていないのではないか。あの時、自我の思い、肉の思いで、神学校に行きたい、牧師になりたいと思ったのではないか。
自分の身勝手な、自分に都合の良い解釈をして、牧師に召されていると思ったのではないか」と、行ったり来たりする波のように疑いの気持ちがあったのです。
そのように悩むようになった要因の一つは、北海道の神学校の教師や、外部から来られる講師などの先輩牧師と比較して、自分のあらゆる面における能力のなさ、足らなさ、貧しさを覚えることから来ているものでした。
それと、もう一つは、神学校において、様々な一連の聖霊様とみことばによる、お取り扱いを受けて、聖霊様の満たしの恵みにあずかる体験をしましたが、名古屋のキリスト教書店に勤めていた時の私は、まだ、そのような、様々な一連の聖霊様とみことばによる、お取り扱いを受けるというような聖霊様の満たしの恵みの体験にあずかっていなかったことにあったのです。
だから、自我の思い、肉の思いが先行し、自分の身勝手な、自分に都合の良い解釈をしたのではないかと思っていたのです。
次回に続く
ハレルヤ!
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