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1.私が名古屋のキリスト教書店で勤めていた時の懐かしい思い出(1)

最初に、愛知県の電機会社から、どのようにして、名古屋のキリスト教書店に導かれたのか、その経緯を分かち合いたいと思います。愛知県の電機会社の先輩であり、私をS教会に誘ってくださったHさんが、私の入社一年後に、電機会社を退職し、名古屋のキリスト教書店の社員として、文書伝道の働きに献身されたのです。

 

名古屋のキリスト教書店は、S教会と同じKビルの三階にあるテナントを借りて営業していました。О店長は、社員の急募の必要性から、S教会のJ宣教師に、「どなたか紹介していただけないでしょうか」と打診されたのです。J宣教師は、そのことをHさんに伝え、Hさんが応答されて入社したのです。そして、三年後に、Hさんは、会社の新規開拓として、静岡県浜松のキリスト教書店の店長として、赴任されることになったのです。それで、Hさんの後任として、私に、「電機会社を退職し、名古屋のキリスト教書店の社員として勤めてはどうですか」と、Hさんだけでなく、帰納法的聖書の学びを指導してくださったS師からも勧めを受けたのです。Hさんと、S師の二人には、特別にお世話になっていたこともあり、また、名古屋のキリスト教書店の社員の急募のこともあって、後任となることを受諾したのです。そして、О店長と面談し、また、会社に、「救いの証し」と、「S教会からの推薦状」を提出して採用となりました。このような経緯を通して、電機会社を三年勤めた後、退職し、畑違いの職場に移ったのです。

 

この時点では、まだ、自分で、神のみこころを尋ね求めることや、神の導きを祈り求めることを知らなかったのです。しかし、このように、他人を通したり、また、このような事情や、置かれている状況を通して働かれることも神のみこころであったこと、神の導きのプロセスの中にあったことを後になって知ることになるのです。

 

それは、電機会社での仕事で、私の配属先の品質管理課は、ほとんど残業がなく、定時の午後5時半に早く終わるため、暇つぶしに、寮の近くに徒歩5分で行ける自動車学校に出かけるようになり、自動車免許を取得したのです。この時は、近い将来、キリスト教書店で勤める目的で、自動車免許を取得したのではありませんでした。むしろ、キリスト教書店で働く思いは全く無かったのです。しかし、この自動車免許の取得が、キリスト教書店で、愛知、岐阜、三重方面の教会の営業に出かけるためには必須であったのです。知らず知らずの内に、予めご存知の神様がそのために備えさせていたことがわかります。

 

更に、キリスト教書店に勤めて後、北海道の神学校に入学することになるのですが、このキリスト教書店で、本を購入させる備えをさせて、次の北海道の神学校に導かれたのです。この時も、神学校に入学することを目的として、キリスト教書店の社員になったわけではありませんでした。むしろ、神学校に入学する思いは全く無かったのです。これも、予めご存知の神様がそのために備えさせていたことがわかります。

 

聖書のことばである伝道者の書3:11節に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」と書かれてある通りです。

 

以前の電機会社の職場では、デスクワークもありましたが、今度は、最初の内は、ずっと店内での立ち仕事でした。とにかく、足が疲れました。これが、慣れるまできつかったことです。毎朝、仕事を始める前に、О店長がリードされて、私を含め3人で聖書を読み、祈りの時を持ちました。

 

О店長は、キリスト教書店の社員を教育指導する賜物が与えられていました。書店にお客様が来られた時は、「いらっしゃいませ」と声かけをし、本を購入されて店を出られるお客様には、「有難う御座いました」と、声かけをするようにと指導されました。「これは、当たり前のこと、当然のことでしょう」と思いました。そして、そのことを実践しました。しかし、ある時、私は、本を購入せずに店を出られるお客様にも、「有難う御座いました」と、声かけをしたのです。すると、О店長は、お客様が本を購入しないで店を出られる場合、「有難う御座いました」と、声かけされたら、申し訳ない気持ちを抱くお客様もいることでしょう。その場合は、「また、お越しください」と、声かけをすると良いと指導されました。それも、実践しました。また、私は、店内にいるお客様の様子を全く見もせず、自由にそのままにさせていました。すると、О店長は、店内におられるお客様の様子をしばらく伺うようにして、何か本を探している様子であれば、近づいて行って、「何か、本をお探しですか」と、声かけするようにも指導を受けました。そのことも、実践しました。また、何度も来てくださる常連のお客様には、「コーヒーをお出しするサービスをすると良い」と指導を受けました。勿論、他のお客様がいないところで配慮して。そのことも、実践しました。プレゼント用の本や商品の包装の仕方、リボンの作り方(今は、忘れてしまいましたが)なども指導を受けました。手先が不器用な私には、覚えるまで、身につくまで大変でしたが、それら全てを、実践しました。

 

更に、私に早く仕事を覚えさせるために、ある時は、私だけ出勤させて、店内でのお客様との応対、レジ打ち、電話での応対、後片付けなどの一切を任されました。昼食は、お客様がいない時を見計らって、店内でしなければなりませんでした。困ったことは、書籍以外の値段が付いていない商品でした。お客様から、「これは幾らですか」と聞かれた時は焦りました。カタログを見て調べるのですが、値段がわかるものもあれば、そうでないものもあったのです。だから、その当時、お客様には、大変ご迷惑をおかけしたこともありました。また、それまで、読書生活をしてこなかった私を、お客様によっても訓練させられてきたなと思います。それは、お客様が、「求道者に対してのお勧めの本は何かありますか」と聞かれたり、「受洗者へのお勧めの本は何かありますか」と聞かれたりすることで、必然的に本を読まざるを得ない状況に追い込まれたからです。しかし、これは、どれだけ、様々なジャンルの本を読んできたか、あるいは、読んでいるかによりますので、今でも困難な状況にあることは否めません。しかし、そういう指導や訓練のプロセスを通されながら、店内での仕事は身につくようになっていったのです。

 

今度は、会社の車で、О店長の助手席に乗って、愛知県の色々な地域の教会に出かけて行きました。営業の仕事の仕方、牧師との応対の仕方も、О店長から直接指導を受けました。そのように指導してくださったО店長に感謝です。

 

自分が、О店長から指導を受ける目的は、まずは、自分が仕事を身につくまで覚えるためでした。それは、自分にとっての益のためでした。しかし、それだけでなく、同時に、お客様にとって役に立つための益でもありました。更に、会社への貢献となる益のためでもありました。そして、何よりも、神様にとって益となるためでありました。

 

聖書のことばであるエペソ4:11~12節に、「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」と、あります。

 

この聖書のみことばによると、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師たちは、キリストご自身から、聖徒たちを整える、つまり、指導する立場に立てられたということです。デボーションも指導の一つです。まず、自分と神様との個人的な交わりを深めていくために益です。しかし、自分のためだけのデボーションではないのです。他の教会員、求道者、自分の肉親の家族、未信者に恵みを分かち合うことで、自分が関わりを持つ他者に益となるのです。更に、教会全体の健徳のために益となるのです。そして、何よりも、一人一人が、神様に依存して生きる、神様にすがって生きるように導かれることで、神様が崇められていく、誉め讃えられていくことで益となるのです。

 

聖書に次のようなことばがあります。ヘブル13:17節「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」

 

ハレルヤ!

 
 
 

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