1.私が愛知県の電機会社に勤めていた時の懐かしい思い出(1)
- funaborigracechape
- 2023年12月11日
- 読了時間: 7分
私がイエス様を信じて2年後の21歳の時、聖書知識においても、日常生活における神様体験においても乏しく貧しい頃に起こった出来事です。夏の休暇の時に、職場の人たちと一緒に、名古屋から福井県の若狭湾まで車で海水浴に出かけることになりました。高速道路を使わないで、下道で通常は4時間位で行けるのですが、若狭湾付近に通じる道が大渋滞していて、通常の2倍の8時間も要したのです。午前6時に出発して、午前10時頃到着予定が、午後2時頃到着となったのです。
私は海育ちのこともあり、海での泳ぎには慣れていたこともあって、到着して、すぐさま、一人で砂浜から直線の約500mを2往復(約2km)の距離を泳ごうと思い泳ぎ出したのです。一往復の距離の1kmを泳ぎ終えて、二往復目に入ったのです。二往復目の折り返し地点の約1.5km付近になって、それまでは、体調は何ともなかったのに、急激にどっと体に疲れを覚えるようになったのです。
私はその頃は、遠泳どころか、プールで泳ぐことすらしていなかったのに、船舶生活をしていた時に、洞海湾で泳いでいたから大丈夫だと過信していたのです。体の急激な強い倦怠感とともに、精神的にも極度の不安と恐れが生じ、心臓の動悸が速くなり、精神的にパニック状態に陥ったのです。
すぐさま、「助けてくれ」と、砂浜にいる人たちに向かって大声で叫びましだが、風向きの影響もあり、私の叫び声が、砂浜にいる人たちに届いている気配は全くありませんでした。そして、自分のいる場所の海面の辺りを見回しましたが、手で捕まることのできるブイ(浮標「ふひょう」のことで、船舶の航行援助用として、錨「いかり」や錘「おもり」によって海底につなぎ、海上に浮かべた構造物で、船舶に岩礁、浅瀬などの障害物の存在を知らせたり、航路を示す目的がある。)や、板切れなどもなく、また、近くに操業している小型船舶もいなかったのです。それで、更に、不安、心配、恐怖の度数は上昇し、極限状態に陥ったのです。
「私は、この若狭湾で溺死するのか、私の人生は、21歳の若さで、もうこれで終わりなのか」と心底本気で思ったのです。と同時にその瞬間に、この極限ギリギリの状態の中、肉眼では見えませんが、私の霊において、私のそば近くにおられることがリアルに実感できるイエス様のご臨在を強く感じたのです。創世記28:16節「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」と、正直に告白したヤコブと私も同じ心境で、私も、まさか、このところに、イエス様が臨在しておられるとは知らなかったのです。思いも寄らないことだったのです。
それで、「イエス様」と大声で、藁をもつかむ気持ちで叫んだのです。すると、それまで、心臓の動悸が激しくドクドクドクドクしていたのが、「イエス様」と叫んだ瞬間に、激しい心臓の動悸と、極度の不安と恐怖心と、全身の倦怠感が一瞬にして取り去られ、消え去ったのです。ちょうど、夜に家の部屋に入ると真っ暗ですが、部屋の電気をつけると、一瞬にして暗闇は消え去り、光が灯り明るくなるように、心臓の動悸が、すぐさま平常に戻り、そして、同時に、霊も魂(精神)も体も全人的に神の全き平安に覆われ、満たされたのです。
ヨハネ14:27節「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」と、聖書のことばにあるように、イエス様の平安、イエス様の内にある平安、どんな凄まじい荒波のような外的環境、状況下にあっても、全く影響も感化も受けることのないイエス様しか持っておられない平安に、「イエス様」と叫んだ瞬間に、瞬時的に満たされたのです。神のなさる奇蹟のみわざ、超自然的なみわざでした。
また、マルコ4:35~39節で、弟子たちと一緒に乗船して、ともの方に眠っておられたイエス様は、激しい突風が起こって、動揺している弟子たちに眠りから起こされて後、湖に「黙れ、静まれ」と言われると、風はやみ、すっかり凪になったとあります。この一連の出来事を通して「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたのだろうか。」と、言った弟子たちと同じように、私も、「私の霊、魂(精神)、体を一瞬にして平安に満たされるこの方は、いったいどなたのだろうか」という心境であったのです。
そして、残りの500mを、手足をゆっくり動かして、平泳ぎで泳ぎ、何もなかったかのように、砂浜に無事にたどり着き、救われたのです。命拾いをしたのです。その時、それら一連の一部始終の出来事を、職場の人たちには話せませんでした。その後、何か月か、その時の一連の恐怖心を抱く夢を見る小さなトラウマを経験しました。しかし、その後、神様によって、その小さなトラウマも、完全に癒されました。今現在もその夢を見ることはありません。
この出来事から学ばされたことの一つは、ローマ10:13節「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」との聖書のみことばです。私は、最初にすぐに「イエス様」と主の御名を呼び求めることをしませんでしたし、できませんでした。主イエス様以外の他の人や物に助けを得ようとしましたし、捜し求めようとしました。しかし、そこには救いは何一つ用意されてはおらず、全くありませんでした。絶望状態でした。しかし、そのこと、人間的な救いの絶望状態を通過させる体験を通して、主の御名を呼び求める以外には、救いは全くないのだということを教えるためであったのだと思います。
二つ目は、私のために立てておられるこの地上における神様の御計画が、全て実現するまでは、また、私に与えられているこの地上における神様から託された使命を果たし終えるまでは、人生にどんな困難や、苦難や、危機的状況を通されたとしても、決して死に至る(天に召される)ことはないのだということを体験的に学ばされたことです。
私のために立てておられる神様の御計画と、託された神様からの使命が、まだ、残されていたから、私は、主にあって死ぬことはなかった、いや、神様は、私を死なせなかった、生かされたのです。その後の私の人生において、名古屋でのキリスト教書店での働き、名古屋のS教会での青年会の三代目の会長と教会学校での奉仕、北海道の神学校での学び、小樽の教会での働き、由起子さんとの結婚、横浜の教会での働き、国立の教会での働き、船堀の教会での働き、ナザレでの働き、また、北海道、東京、大阪、沖縄、中国、台湾、新潟、千葉、茨城などでの教団教派の異なる他教会での招かれての奉仕など、神様の立てられた御計画と、託された神様からの使命が残されていたからです。
まことに、全ての人は、自分で生きているのではなく、また、自分のために生きているのでもなく、私たち一人一人のために立てておられる神様の御計画と、託された神様からの使命が、まだ残されているので、神様のために生かされているのです。
ローマ14:7~9節「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人も、主となるためです。」
私たちには、今後、いつまで、どこまで神様の御計画と、託された神様からの使命が継続されるのかは示されてはいませんし、わかりません。私たちの創造主であり、私たちのオーナー(所有者)であり、私たちの人生の主権者であられる神様に全てをお任せし、委ねる以外にはないのです。
クリスチャンにとって、死が意味するものは、私たち個人個人、一人一人のために立てておられるこの地上における神様の御計画が、完全に実現したこと、成就したこと、完了したことを意味します。また、神様から託された私たちへの使命が完全に果たし終えた、終了したことを意味します。と、同時に、世を去ってキリストとともにいること、有限で一時的なこの地上における存在目的、使命の完了と、無限で永遠の天の御国における存在目的、使命のスタートへの移行を意味するのです。
私たち一人一人に立てておられる神様の御計画と、私たち一人一人に託された神様からの使命が、この地上において完了するまでは、どんなことがあろうと決して死なせはしない、生かされるお方に。また、死を通して、天の御国において、永遠の神の御計画と託された使命に生かし続けてくださるお方に。
ハレルヤ!
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