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1.私が救いに導かれたプロセス(1)

私が中三の頃、父の腎臓癌による片方の腎臓摘出手術を機に、両親は洞海湾における船舶の仕事を退職しました。そして、すでに長男家族の4人が、北九州市の帆柱山(ほばしらやま)の麓の高台にある賃貸の家に住んでいましたが、両親と五女と私の4人の合計8人が同居するようになりました。船舶の水上生活から家屋での陸上生活になって嬉しかったのを今でも覚えています。


 


家の裏には井戸があり、井戸水をつるべで汲んで使っていました。また、裏庭に父が鶏小屋を作り、ヒヨコから育てた雄鶏1羽に、雌鶏を5羽買って来て飼いました。毎朝、鶏小屋にタマゴを取りに行って、タマゴかけご飯にして食べていました。鶏のエサは市販のものを買って、時々、貝殻をハンマーで粉々に砕いて、エサに混ぜて食べさせていました。雄鶏は、気性が激しく飛び掛かってくるので別小屋で飼っていました。雌鶏は、優しく大人しい性格で、私の手のひらにエサを載せて食べさせることをしている内に、私を怖がらずに懐くようになりました。野生のメジロをヒナから育てた時と同じように、雌鶏も頭をナデナデさせてくれました。


 


また、名前はクロという雑種のオス犬も裏庭の犬小屋で飼っていました。吠えることはほとんどなく、大人しく優しくて番犬にはなりませんでしたが。クロのエサは、私たちの残飯をあげていました。クロとよく遊び、話しかけ、かわいがりました。中学校の登校時に、学校まで私についてきたこともありました。クロは、新しい家に引っ越しをする前に、フィラリアに感染して死んでしまいました。現在では、フィラリアに感染しない予防薬がありますが、当時はなかったように思います。昔の飼い犬は、現在の飼い犬と違って、家の外で飼われ、しかも、短命でかわいそうでした。


 


階段がたくさんある高台の賃貸の家では、将来的には体力的に負担がかかるということで、2年後に八幡駅(やはたえき)付近にある中古物件の家(現在の実家)を購入し、引っ越しをしました。引っ越しをする前に、私は高校受験に臨みましたが、神様は第一志望校は閉ざされ、第二志望校の門を開かれたのです。当時は、イエス様を信じていませんでしたので、受験に合格した、不合格したということばを使っていましたが、イエス様を信じるようになってからは、人生における全ての出来事に関して、神様の摂理とみこころ(神様のご計画、御思い、ご配慮)があることから、神様が開かれた、神様が閉ざされたということばを使うようになりました。


 


その第二志望校において、英語クラブに入部しました。そして、顧問の英語の教師から、教師たちも学んでいる米国人の英語教師を紹介していただいたのです。自宅から路面電車を利用して、30分ほどの黒崎(くろさき)まで放課後に通うようになりました。後にわかったことですが、その米国人は、キリスト教のルーテル教団のF宣教師で温厚な方でした。大学時代は、アメリカンフットボールの名選手であったようです。奥様は、熊本出身の日本人でした。


 


ある時、F宣教師に日曜日の礼拝に誘われたことがありました。授業料を安くしていただいていたこともあり、義理で礼拝に出席をしたものの、その当時の私は、キリスト教を含め宗教に対して全くの無関心で、また、人生における悩みも葛藤も当時は全くなかったので、一度きりの礼拝出席でした。


高三の時、F宣教師より「あなたは10年後、何をしていますか」という題で、英語で作文を書いてくるようにと宿題が出されました。その時17歳位でしたので、27歳位になった自分の将来像についてのことです。それまで、自分の将来のことについて考えたり、計画を練ったりすることはなかったので、自分にとって有益な宿題でした。


 


書いたことの一つ目は、一度切りの人生だし、また、世界は広く、北九州市を含め日本だけで過ごすのは惜しいので、英語の学びを続けて、アメリカに行っているだろうと書きました。二つ目は、電気科で学んでいたこともあって、高校卒業後、電気関係の会社に勤めて、英語を使いながら、海外にも出張する電気技術者になっているだろうと書きました。


 


そして、その宿題の通りに、愛知県にある電機会社に就職し、機器事業部の品質管理課に配属されました。そこは、国内のS社、T社、M社、H社などのメーカーの冷蔵庫や洗濯機などに使用する小型モーターや、海外のメーカーからの缶オープナー(240ボルトの電圧で使用するもので、日本の工場では200ボルトの電圧はありますが、家庭では100ボルトの電圧なので、使用不可のこともあり、当時、日本では製造販売されていない電動缶切り)の小型モーター等の受注を受けて、製品の出荷の是非を決定するために、製品の抜き打ち検査を行い、一箱に一つでも欠陥製品があれば、そのロットの製品の出荷禁止を指示する部署で、取引先のメーカーとの立会検査や、取引先への出張もありました。


 


そして、週三回、英会話スクールに通い、自分の計画通りに、21歳の時に、40日間のアメリカ西海岸でのホームステイを体験できたのです。しかし、10年後、私は電気技術者ではなく、正確には、12年後の29歳の時ですが、神学校を卒業し、小樽の教会の牧師に就任していたのです。


 


このことから、エレミヤ29:11節「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。ー主のことばー。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」という、このみことばに出会いました。私は、自分のために計画を立てていました。しかし、私は、自分がクリスチャンになることや、ましてや、神学校に行って、牧師になろうとする計画は、全く持ち合わせてはいなかったのです。そのことにより、私が、自分の立てた計画が、自分の人生に成就する、実現するのではなく、私の創造主であられ、権威者であられ、主権者であられ、支配者であられる私のために立ててくださっておられる神様のご計画が、自分の人生に成就する、実現することを体験的に知らされたのです。


 


だから、たとえ、私たちの自分の人生が、自分の計画通り、思い通りに進んでいなくても嘆いたり落ち込んだりする必要はないということです。私たちのために立てておられる神様のご計画があることに、聖霊様によって、私たちの心の目を開いてくださいますように。そして、自分の人生の計画に固執せずに、最善に導いてくださる聖霊様に明け渡し、お預けし、お任せし、委ねさせてくださいますように。また、たとえ、私たちの人生の歩みが、紆余曲折を通されても、聖霊様によって、神様のご計画通り、思い通りに進んでいることを信じさせてくださいますように。そして、聖霊様によって、将来と希望を与える神様のご計画を体験的に知らされて、神様に栄光と誉れと賛美を捧げさせてくださいますように。


 


静まる時を持たれて、自分の人生の過去から現在までの既知のプロセス、体験済みのプロセスを、御霊とみことばによって、振り返って見る黙想をしては如何でしょうか。


 


そうすることによって、自分の人生の現在から将来における未知のプロセス、未体験のプロセスにおいて、良いことのための計らいとしてくださる神様への信仰を強くしてくださいますように。


 


創世記50:20節「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」


 


ハレルヤ!

 
 
 

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