top of page

12.船舶生活での懐かしい思い出(12)ー私の家の宗教であった浄土真宗のエピソードー

私の家の宗教は、浄土真宗でした。と言っても、母親だけが熱心でしたが。船舶生活の時には、母は、自分の両隣に、幼少であった私と五女の姉を座らせて、毎朝夕毎に、お経をあげてから、食事をしていたのを思い出します。ある時、「神って何」と母に尋ねたら、私が嘘をついたら、閻魔様が、閻魔台帳に記録していて、舌を抜くという話を聞かされて、恐怖の神観を抱いたのを覚えています。また、誰もいない時を見計らって、仏壇の中にあるお札(紙切れ)を見て、「神格(人格)のないこれが神か」と、幼いながらも不信感を抱く思いもあったことも記憶にあります。


 


小樽の教会での牧師の時に、浄土真宗の救いについて調べてみることにしました。調べる前は、全否定的でありましたが、調べている内に、聖書の真理と重なるところもあることに気づかされ、浄土真宗に限らず、諸宗教に対して、尊重する姿勢が必要であるという思いに変えられました。(勿論、聖書が語る確かな救いではありませんが)


 


まず初めに、「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」に対する浄土宗と、浄土真宗の考え方についてですが、「南無阿弥陀仏」を称(とな)える浄土宗は、平安時代の終わり頃に、法然によって開かれました。日本に伝わった当初の仏教では、苦しい修行をくぐり抜けた優れた人でないと、極楽浄土へ往生できない(救われない)とされていました。そのため、仏教は一般大衆のものではなく、世の中が乱れて、不安がはびこる中でありながらも、仏様に救いを求められなかったのです。そこで、法然が、「南無阿弥陀仏と称えるだけで良い。称えることで阿弥陀仏によって、極楽浄土へ往生できる(数われる)」と説いたのです。その後、鎌倉時代の中期に、法然の弟子であり浄土真宗を開いた親鸞は、「南無阿弥陀仏を称えることで救われるのではなく、阿弥陀仏の力を信じることで、全ての人は、極楽浄土へ往生できる(救われる)」という他力本願(「阿弥陀仏」による救い、「阿弥陀仏」に対する信仰による救い)を説いたのです。


 


南無阿弥陀仏の「南無(なも)」は、インドの古代の言語であるサンスクリット語で、「私は帰依しますという意味で、「阿弥陀(あみだ)」は、「無量の命、果てのない光」を表し、「仏(ぶつ)」は、「悟りを開いた者、つまり、仏(ほとけ)様」を指している。帰依(きえ)とは「帰属する」の「帰」に「依存」の「依」から成り立っていることばです。帰依は、仏教用語の一つであり、サンスクリット語の「namas(ナマス)」は、「礼拝する、敬う」といった意味を持ち、それが、「南無」を表しています。


 


ですから、南無阿弥陀仏とは、「私たちには、計り知ることができない悟りを開いた阿弥陀様という仏様に帰依します」という意味である。分かり易く言うと、「私は悟りを開いた阿弥陀様という仏様にすがって、全てをお任せします。私は悟りを開いた阿弥陀様という仏様を礼拝し、心から従います」といった誓いのことば(信仰告白)になるのです。


 


聖書では、イエス・キリストへの信仰告白は、父なる神様と、聖霊様の働きかけによる恵みだと証しされています。マタイ16:15~17節「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」


 


第一コリント12:3節「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」


 


浄土真宗では、死後の行き先は、極楽浄土に即座に行けると教えています。阿弥陀様という仏様が、死者を一瞬で極楽浄土に導くというのです。しかし、問題は救い主の阿弥陀様という仏様という存在が、実在するかどうかが、はっきり証明出来ないという点です。多くの僧侶が、そのことを正直に認めているのです。


 


聖書では、天の御国(父なる神のみもと)に行く道は、存在の実在が、はっきりと証明されているイエス・キリストを通してと証しされています。ヨハネ14:6節「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」


 


「仏教からキリストへ」という本を書かれた、元浄土真宗の僧侶であった亀谷師は、聖書と比較して学んでいるうちに、救い主としての阿弥陀様という仏様の実在は、不確かだが、


イエス・キリストが、救い主として実在されたことは、確かなことだとして、イエス・キリストに帰依することで、浄土真宗から破門されて、残りの生涯を牧師として送られて召されたのです。


 


仏壇でお経をあげていた母と、母の両隣に座っていた私と五女の姉(現在、広島在住)も、イエス・キリストを信じる者とされました。母はすでに召されましたが、私と五女の姉は、今も主によって生かされています。神様のなさることは不思議です。神様の愛と、神様の恵みと、神様のあわれみ、いつくしみのみわざ以外には考えられないことです。


 


聖書では、ヨエル2:32節「しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。」ローマ10:13節「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。使徒4:12節「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」と、このように、人間であるとともに、神様でもあるイエス・キリストによる唯一の救いを約束されています。


 


御子なる神が、人間としてご降誕されて、確かにこの世に実在された、人間であるとともに神様でもあられるイエス・キリスト様、私たちを罪とサタンと死からの救い主として十字架につけられたイエス・キリスト様、三日目に、墓(死者)の中からよみがえられて、天の御国に入る救いを確実なものとして保証されたイエス・キリスト様、今現在も存在され実在され生きておられ、天におられる父なる神様の右に着座されて、とりなしをしておられるイエス・キリスト様、やがて、行いではなく、ただ信仰によって、イエス・キリスト様の御名を呼び求める者たちを、天の故郷に招き入れるために迎えに来てくださるイエス・キリスト様へ。


 


ハレルヤ!

 
 
 

最新記事

すべて表示
54.主から遣わされた四番目の東京の江戸川区にある船堀の教会での懐かしい思い出(54)

今回も、N葬儀社に関わることですが、ある教会のご遺族のお父様の葬儀での火葬と収骨に携わった時のことです。 それは、N葬儀社の現場担当者の方が、その葬儀中に、別の教会での葬儀が発生して、その葬儀の担当をしなければならない状況になりましたので、私が代わって、火葬と収骨に携わる必要が生じたのです。 ご遺族の娘さんから、「火葬前に、もう一度、棺の蓋を開けていただいて、お父さんとの最後のお別れは出来ますか」

 
 
 
53.主から遣わされた四番目の東京の江戸川区にある船堀の教会での懐かしい思い出(53)

前回からの続き 前々回の50番目の証しにおいて、異端の方の葬儀の司式を行うことに関して、私の最初の反応の正直な思い「それは、出来ないでしょう。それは、まずいでしょう。それは、無理でしょう。 未信者の方ならまだしも、異端の方なのだから」という気持ちをお伝えし、最初は、断ろうかと思っていましたが、私の思いの中に働かれる聖霊様と、聖霊様の語りかけを聞かされたこと、聖霊様の導きの中での葬儀の司式であったこ

 
 
 
52.主から遣わされた四番目の東京の江戸川区にある船堀の教会での懐かしい思い出(52)

前回からの続き このような異端の方の葬儀の司式を行ったのは、私のこれまでの人生において、ただ、この一回だけで、N葬儀社に確認をしましたが、それ以前も、以後も、異端の方の葬儀の依頼はないとのことです。 不思議なことに、そのご遺族とは無関係の方ではありますが、私は、20年ほど前に、新潟の教会で奉仕をすることをきっかけに、異端から救われたS姉との関わりを持つように導かれていましたが、 このS姉は、生ける

 
 
 

コメント


©2022 by 船堀グレースチャペル。Wix.com で作成されました。

bottom of page