2.主からの最初の派遣先である小樽の教会における懐かしい思い出(2)
- funaborigracechape
- 2024年4月29日
- 読了時間: 3分
前回の最後の文章から再開します。(前回の最後の文章に加筆をしています)
そのように(私は、牧師として、本当に召されているのかということに)悩むようになった要因の一つは、北海道の神学校の教師や、外部から来られる講師などの先輩牧師と比較して、自分のあらゆる面における能力のなさ、足らなさ、貧しさを覚えることから来ているものでした。
それと、もう一つは、神学校において、聖霊様とみことばによる、様々な一連のお取り扱いを受けて、聖霊様の満たしの恵みにあずかる体験をしましたが、名古屋のキリスト教書店に勤めていた時の私は、まだ、そのような、聖霊様とみことばによる、様々な一連のお取り扱いを受けるというような聖霊様の満たしの恵みの体験にあずかっていなかったことにありました。
だから、自我の思い、肉の思いが先行し、自分の身勝手な、自分に都合の良い解釈をしたのではないかと思っていたのです。
ある日曜日、教会の全ての奉仕を終えて、教会の2階(1階は礼拝堂、2階は牧師室)で、6畳の畳部屋で、寝っ転がって、自分の牧師の召しに関して、思い巡らしていると、
ピリピ2:13節「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ事を行わせてくださる方です。」という聖書のみことばが、私の暗闇の思いの中に、突然、光のように差し込んで来たのです。
そのみことばによって、このように、聖霊様によって、語られたのです。
「あなたは、自我の思い、肉の思いで、神学校に行こうとか、牧師になろうと思ったのではないか。自分の身勝手な、自分に都合の良い解釈をして、牧師に召されていると思ったのでないかと悩み続けて来ているが、
そもそも、あなたに、神学校に行こうとか、牧師になろうという、そのような思いを、志を与えたのは、このわたしなのだ。
あなたが、牧師に召されたのは、あなたの身勝手な、自分に都合の良い解釈ではないのだ。あなたを牧師として召したのは、このわたしなのだ」と。
さらに、次の日の月曜日の朝には、ピリピ2:14節「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」という、
このみことばを持って、何度も行ったり来たりする波のように疑ってきた私に対して、「(牧師として召されたことを)疑わずに(牧師の働き、務めを)行いなさい。」と、念押しをされて、語ってくださったのです。
詩篇119:130節「みことばの戸が開くと 光が差し 浅はかな者に悟りを与えます。」
詩篇119:105節「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」
このことがあって以来、牧師の召命感の問題で悩むことはなくなったのです。聖書のみことばと、聖霊様の語りかけによって、解決されたからです。
このことから、未解決の問題は、自我の思い、肉の思い、自問自答では、決して解決しないこと。
神様に問いかけ、神様からの答えである、聖書のみことばと、聖霊様の語りかけをいただくこと、神問神答で、未解決の問題は、最終的に、終止符を打つことを学ばされたのです。
そう言えば、
次回に続く
ハレルヤ!
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