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2.北海道の神学校での忘れられない神様からの大切な学び、お取り扱い、贈り物(2)

マタイ6:33節に「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」とあるが、このみことばの体験を分かち合いたいと思います。

ある時、神学校での授業の時に、S校長から、「神の国」とは、「神の領土」という意味以外に、「神の王国」、「神のご支配」、「神の統治」という意味であることを教えていただいたのです。それで、自分でも調べると、神の国の「国」は、「領土」の他に、「王国」、「支配」、「統治」を意味するものであることがわかったのです。

「神の国」とは、「神の王国の王は神であり、王である神が支配する王国」ということを意味します。ローマ14:17節では、「神の国」とは、「聖霊による義と平和と喜び」と、記されています。また、「神の義」とは、神の義の基準に従って生きること、「イエス・キリストを信じる信仰によって、聖霊と聖書のみことばによって、神のみこころに従って生きる」ことを意味します。

だから、神の国と神の義を求めるということは、「神を王とし、自分は、王である神の民の意識を持って、へりくだり、聖霊による義と平和と喜びに満たされて、信仰によって、聖霊と聖書のみことばによって、神のみこころに従って生きる」ことを求めることを意味するのです。

私たち人間は、自然的には、神様に従順に従おうとする思いや、神様のことばに聞き従おうとする思い、神様のみこころに生きようとする思いに支配されているのではなく、自己中心のわがままな思いや、考えや、欲望、自分の願い通り、思い通りに生きようとする思いに支配されているのです。

だから、自分が、神様のご支配を受けること、自分が、神様の統治下に置かれることを求めるということは、自分のわがままな思いや、考えや、欲望さえも、神様にご支配していただくことで、神様の願い通り、思い通り、神様のみこころに生きることを願うことであると理解し、受け取ったのです。

その神の国の意味を知らされた、ちょうどその時、スーツと、色柄のカッターシャツが欲しいと思っていた矢先のことでありました。しかし、そのマタイ6:33節の「神の国」のことばの意味を知らされることによって、スーツや、色柄のカッターシャツを求める自分の欲望を満たす祈りはせずに、「神様、私の思い、考え、欲望をご支配ください。あなたのみこころの思いや、考えや、聖なる欲望に生きる者として、私をご支配してください。私を統治してください。」と、祈るように導かれたのです。

そして、自分の考え、思い、欲望を捨てて、脇に置いて、ただひたすら、「神様、私の考え、思い、欲望をご支配ください。あなたのみこころにかなう考えと思いと聖なる欲望に満たしてください」と、毎日、祈り続けていました。

すると、しばらくして、神学生の2年の時の私の奉仕教会であったS先生が、私がいる神学校の男子寮まで来られて、「若木君、このスーツ、君の体型に合うのではないかと思いますが、これを君に上げるよ。」と、何とスーツ2着を頂いたのです。神様に、スーツを求める祈りを、一切していなかったのにです。でも、この時には、まだ、あることに、気づいていなかったのです。

しかし、スーツを頂いても、なお、自分の思いや、考えや、欲望が、神様によって、引き続き、ご支配されること、神様によって統治され、神様のみこころに生きる者とされることを祈り求め続けていました。

すると、また、しばらくすると、今度は、クリスチャンのクリーニング屋の店主さんが、自家用車で、ダンボール箱にいっぱい入った衣類を、神学校まで持って来られたのです。そして、女子寮に行かれた後、男子寮にも来られて、「実は、これらの衣類は、お客様が半年経過しても、引き取りに来られない衣類で、神学生の皆さんに、献品として持ってきたものです。どうぞ、皆さんでお分けください。」と言われたのです。それで、男子神学生6人で分けることになりました。そのダンボール箱には、白地と色柄のカッターシャツも入っていました。色柄のカッターシャツは、何と、3着全てが、Sサイズのものであったのです。つまり、小柄な体型の私だけしか合わないものであったのです。そして、白地のカッターシャツは、たくさんありましたが、その内の2着はSサイズであったので、それも私が頂いたのです。この時も、神様に、白地のカッターシャツを含め、色柄のカッターシャツを求める祈りを、一切していなかったのにです。そして、この時に、あることに気づかされたのです。

それは、マタイ6:33節「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」の、みことばに関してです。

「これらのもの」とは、マタイ6:25節「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る以上のものではありませんか。」というこのみことばから、飲食、衣類などの「物質的な生活必需品」のことです。

そして、マタイ6:33節の前の32節に「これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。」と、天の父は、私たちに、これらの「物質的な生活必需品」が、必要であることを知っておられると言っておられます。だから、マタイ6:33節「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えらます。」と、繋がっているのです。

つまり、求める優先順位があるということです。神のお求めである霊的最優先順位である「まず神の国と神の義を求めなさい。」そうすれば、「物質的な生活必需品」は、加えて与えられると約束されているのです。決して、自分の「物質的な生活必需品」を求めることを、最優先順位に置くのではないということです。

Ⅰ列王記17:8~12節において、シドンのツァレファテのやもめの食べ物は残り少なくなりました。貧しい親子は、長い飢饉で残った一握りの粉と、壺の中にあるほんの少しの油を使って、最後のパンを調理して、それを食べてから死のうと思っていました。

ところが、預言者エリヤが来て、この母親に、Ⅰ列王記17:13~14節で、「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう言われるからです。「主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。」と、主のことばを伝えました。

このような非常識に見えることばを信じ、自分たちの「物質的な生活必需品」のことよりも、「神様の仰せのことば」を最優先して、預言者エリヤのことばに従うことは、大変な信仰、勇気がいることでした。

しかし、Ⅰ列王記17:15~16節で、このやもめの母親は、預言者エリヤのことばのとおりにしたのです。すると、預言者エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかったのです。

また、別の話ですが、ヨハネ9:1節には、目の見えない男性の人が出てくる。イエス様は、地面に唾をして、その唾で泥を作られ、その泥をその男性の目に塗って、7節では、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」と記されています。

イエス様は、ただ、この男性に、泥のついた目を、シロアムの池で洗いなさいと言われただけでした。イエス様は、「そのシロアムの池で、泥のついた目を洗うと、目が見えるようになるよ」と、言われたわけではありませんでした。更に、この男性は、「シロアムの池で、泥のついた目を洗うと、どうなるのですか」と、イエス様に尋ねてもいません。ただ、この男性には、イエス様の言われたことばに、従う選択をすることもできるし、従わない選択もすることができたのです。この男性は、素直に、イエス様の言われたことばの通りに従う選択をすることで、目が見えるようになるというイエス様の奇蹟のみわざにあずかったのです。

マタイ6:33節「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」の、「まず」という最優先順位に、「神の国と神の義を求める」というイエス様のみことばに従うことを選択することで、そのみことば通りのこと、「これらのものはすべて」という「物質的な生活必需品」のすべては、それに加えて与えられるということが起こるということを体験的に気づかされたのです。

結論として、私が気づかされ、教えられたことは、これらの聖書箇所からの、このことです。つまり、イエス様の言われたことば、聖書のことばに対して、最優先に従う選択をすることで、その条件付きの約束された神様のことばの通りの恵みにあずかる場合と、たとえ、神様の約束のことばは、はっきりと示されていなくても、神様の不思議な奇蹟のみわざにあずかるということに気づかされ、教えられたのです。

「神の国と神の義をまず求めなさい。そうすれば、みな、与えられる。ハレル、ハレルヤ。」

 ハレルヤ!
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