2.私が名古屋のキリスト教書店で勤めていた時の懐かしい思い出(2)
- funaborigracechape
- 2024年1月8日
- 読了時間: 8分
2.私が名古屋のキリスト教書店で勤めていた時の懐かしい思い出(2)
以前に、私が母からの反対を受けて、イエス様と教会から離れ去ろうとしましたが、S教会のS師の私の寮への三度にわたる訪問と、帰納的な聖書の学びを受けることで、イエス様と教会に戻ることができたということを分かち合いました。私は、聖書のみことばによって強められたことから、北九州の実家の両親に、イエス様のことを話そうと計画しました。
でも、末っ子であり、人生経験も浅い息子の私の話は信用せず、耳を傾けて聞こうとしないのではないかと思い、それで、イエス様にお祈りをしました。「両親にどのようにして、イエス様のことを話したらよいでしょうか」と。すると、聖書のことばであるピリピ2:13節に「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」とあるように、私の中に、キリスト教の大衆伝道者の本田弘慈先生のカセットのメッセージテープを聞いてもらうと良いのではないかという思いが与えられたのです。
本田弘慈先生は、両親と同年代であったことと、そして、母は、落語が好きで、よくラジオを聞いては笑っていたこともあって、本田弘慈先生の話はおもしろいので、聞いてくれるのではないかと思ったからです。両親が、本田弘慈先生のメッセージを聞いてくれるように祈りつつ、ある正月休みの時に、北九州市の実家に帰省しました。
そして、両親だけがいるところで、キリスト教の話をしてくださる本田弘慈先生のメッセージを聞いて欲しいと伝えて、カセットデッキの再生ボタンを押しました。最初のころの話の時には、母は聞くことに対して抵抗していましたが、本田弘慈先生が、笑わせるような話をしだすと、母も笑いながら聞くようになったのです。1時間位の話を最後まで、両親は聞いてくれたのです。いや、イエス様が聞かせてくださったのです。
両親が最後まで聞き終わった時、思いがけないことが起こったのです。母は無反応でしたが、父の口から「キリスト教は、いいなあ」と言ってくれたのです。驚きと嬉しさが混じり合って、イエス様が父に働かれたことを感謝しました。そして、私は、三年計画で両親をイエス様に導こうと考えたのです。
ところが、帰省先の実家から名古屋に戻って、一週間後、ショッキングな知らせを受けました。愛知県在住の姉から、父が肺癌の末期で、余命三カ月との電話があったのです。そして、実家の近くの病院に入院しているとのことでした。信じられませんでした。実家で一週間前の父の元気な姿を見ていたからです。「嘘だろう」と、最初は思いました。私が名古屋に戻ってから、父が、咳がコンコンと頻繁に出るので、母に勧められて病院で診察を受けることで、肺癌の末期とわかったそうです。現在は、医者は、病人に残りの余命の時間を有意義に過ごしてもらうことに配慮し、直接、本人に病名を告知しますが、当時は、病人の精神的ショックを考慮して告知せず、家族だけに告知する傾向にありました。
早速、私は、勤め先の書店の店長にそのことをお伝えし、三日間の休暇をいただき、実家に帰省しました。私の考えでは、三年計画で父をイエス様に導こうと思いましたが、残された父の余命は三カ月でした。「父を救ってください」と、祈りつつ、新幹線に乗り込みました。入院先の病院を知っていたので、直接、病院に向かいました。そして、医者から父の肺のレントゲン写真を見せていただくと、左肺が真っ白でした。
父の病室に入って挨拶すると、父は元気な声で「末敏、おまえはこの前、帰省したばかりなので、お見舞いに来なくても良かったのに。すぐに良くなって退院できるのだから」と言って、自分の病気の深刻さを全く知りませんでした。父のそのような姿を見て、その日は、何も言えないまま、「また、明日来るね」と言って、実家に戻りました。翌日、病院に出かける前に、「イエス様、父にイエス様のことを伝えることを助けてください。そして、父を救ってください」と祈って出かけました。しかし、その日も、何も言えないままで、面会の時間は終わってしまったのです。
休暇をいただいた三日間の最終日の三日目の朝を迎えました。「イエス様、今日が最後の日です。そして、今日、名古屋に帰らなければなりません。どうぞ、イエス様のことを伝える力を与えてください」と祈って、母と一緒に出かけました。しかし、依然として、中々ことばが口から出てきませんでした。父のいる病室で、心の中で「イエス様、あなたのことを話すことばと力を与えてください」と、何度も何度も祈り続けました。すると、咄嗟に出てきたことばが、「父ちゃん、死んでも生きたいとは思わない」で、あったのです。自分でもビックリしました。父に自分が深刻な病気であることに気づかされたのではないか。どうして、このようなことを言ったのだろうとハラハラしました。しかし、それは、私からではなく、イエス様から出たことばであったと今でも信じています。なぜなら、そんな深刻な病気を抱えている父に対して、自分の口からは、そんなことばを語る勇気は毛頭なかったからです。
でも、そのことばが口から出て来るや否や、どうして、人間が死んで行くのかと言うと、寿命とか、事故とか、病気が原因ではなく、罪が原因で、人間はみんな死んで行くようになったこと。罪とは、天地万物を創造された真の神様を無視して、感謝もせず、自分中心に生きて行くことであること。しかし、神様は愛と恵みと憐みのお方で、私たちの罪をイエス様に負わせられて十字架につけてくださったこと。そして、イエス様は、十字架につけられて死なれて、三日目によみがえられて、今も生きておられること。そして、イエス様を、ただ信じ受け入れるだけで、罪から救われて天国に行けることを伝え、「父ちゃん、イエス様を信じない」と畳みかけるように、マシンガンのように、イエス様が、私の口を開いて語らせてくださったのです。
そして、父は、「信じる」と告白したのです。私は嬉しさの余り、他の患者さんも同じ病室にいましたが気にもならず、声を出して祈りました。「イエス様、有難うございます。父が、あなたを信じるように導いてくださったことを感謝します。あなたを信じることで、罪が赦され、天国に行けるようにしてくださったことを感謝します。」と。母も私のそばにいて、手を組んで目を閉じて祈りを聞いていました。このようにして、神のご計画は、私の三年計画とは異なり、私が実家に帰省後、本田弘慈先生のメッセージを聞かせてから、一週間後に父を救うことであったのです。
父が天に召される時が近づいて来ました。母から、父が私に会いたいと言っているとの電話がありました。それで、再度、店長に許可をいただいて休みをいただき、実家に戻りました。病室に向かうと、熊本の田舎の親族の方々が、お見舞いに来てくださっていました。口々に、「おじさん、気持ちをしっかり持たないとね。すぐによくなるんだから」と。人間的には精一杯のできうる限りの励ましのことばであったと思います。しかし、父の心には届いていませんでした。
父は、もうこの時、自分の死が間近に迫っていることを悟っていました。咳をするたび、血痰が出ていましたし、肺に激痛を経験していました。口には出しませんが、「ああ、このように、熊本の親族の人たちが、お見舞いに来ているということは、私にお別れを言いに来ているのだな。もう間もなく、私は死ぬのだな。」と、心の中で思っていたのではないだろうかと推測できました。親族の方々のお別れのことばを聞いて、父が、「ハーハー、ハーハー」と、息遣いが荒くなり、胸の当たりが激しく上下運動を起こし、精神的な動揺をきたしているのをこの目で見ました。
親族の方々に、お見舞いに来てくださったことのお礼を言い、やがて、親族の方々は病室を去り帰って行かれました。その後、私は、父に、ヨハネ14:1~6節「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。私がどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」トマスはイエスに言った。「主よどこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」この聖書箇所を、ただ読んであげただけでした。
すると、それまで、息遣いが荒く、胸の当たりの激しい上下運動を起こし、精神的に動揺していた父の口から、「フッ」と、安堵した溜息を吐き、霊、魂(精神)、体の全人的に神様の平安に満たされたのをこの目で見たのです。私が福井県の若狭湾で経験した時と同じ神の全き平安を。もう間近に死にゆくことが分かっている父に、人のことばでは、平安が父の心には届かず、精神的に動揺にしていたのですが、ただ、神のいのちに満ちている、生きている、力ある聖書のことばによって、父の恐れや不安を取り除き、一瞬にして父の心に届く神の平安に満たしてくださる聖書のことばの力、神のことばの力をこの目で見たのです。
ヘブル4:12節「神のことばは生きていて、力があり」
そして、ある土曜日、仕事中の私に、父が召されたと、愛知県に在住の義兄から電話連絡がありました。父は、医者が余命三カ月と言った通り、いや、父に対する神様のご計画と、父に託された神様からの使命を果たし終えて、主の身許に召されたのです。67年の生涯でした。翌日、S教会での午前の礼拝に出席して後、北九州市の実家に帰省したのです。
ハレルヤ!
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