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2.私が愛知県の電機会社に勤めていた時の懐かしい思い出(2)

イエス様を信じてクリスチャンになった私は、寮の同室の者たちにイエス様のことを伝えるようになりました。つまり、伝道をするようになったのです。私よりも年上のある人は、「若木が、また、イエス様のことを話し出した」と言って煙たがれ、他の部屋に行っては、他の寮生たちにそのことを言いふらされたこともありました。また、ある時、同期入社のM君から、「おい、若木、イエス様の墓が青森にあるのを知らないのか」と言って、そのことが書いてある本を手渡されました。確かに、その本には、そのことが書いてあったのです。しかし、その時、私は、何も反論ができなかったのです。

 

この時は、まだ生まれたばかりの乳飲み子のクリスチャンであったこともあり、聖書知識も乏しく、生きた神様体験にも乏しく、証しの力の欠如を覚えていました。それで、私をS教会に誘ってくれたH兄に、「Hさん、イエス様の墓が青森にあるのをご存知でしたか」と尋ねると、さすがに信仰の先輩でした。「若木君、あなたは、聖書に書かれていることばと、その一般の本に書かれていることばのどちらを信じるのですか」と問われて、ハッと目覚めさせられたのです。聖書のことばを信じる信仰に立たなければ、翻弄されてしまう、惑わされたりしてしまうのだということがわかったのです。

 

もう一つのことは、北九州の実家に帰省した時、イエス様のことを母に伝えると、「自分たちの家族や親族には、誰一人、キリスト教を信じている人はいない。だから、聖書を捨ててしまいなさい」と強い口調で言われたのです。この時、以前にも、分かち合いましたように、母は、浄土真宗に熱心で、毎朝、毎晩、仏壇に手を合わせて、お経を唱えていました。イエス様のことで、母との関係が悪くなり、実家の雰囲気も悪くなったのです。それで、S教会をそっと離れようと思ったのです。そんなことがあって、会社の寮に戻って後、S教会の日曜日の礼拝を欠席しました。すると、私と同じ春日井市に住んでおられたN大の助手であり、S教会の役員であったS師が寮まで訪ねて来てくださったのです。「若木君、この前の日曜日は、どうされましたか」と尋ねられ、とっさに、「頭が痛かったので休みました」と嘘をついたのです。次の日曜日の礼拝も休みました。また、S師は寮まで来られた。「若木君、この前の日曜日は、どうされましたか」と、また同じことを尋ねられたので、「お腹が痛かったので休みました」と、また、嘘をつきました。また、次の日曜日の礼拝も休みました。続けて、三週です。

 

また、「S師は来られるな」と思ったので、寮の玄関には寮生一人一人のフルネイムで書かれた名札がありましたが、表は黒字で書かれていて、それは、その寮生が寮内にいることを表し、裏は赤字で書かれていて、それは、その寮生が外出中を表しましたが、私は、寮の管理人さんに気づかれないように、寮の部屋にいながら、わざと赤札の外出中に変えておいたのです。しかし、しばらくすると、寮の管理人さんから、「23号室の若木君、面会人が来ています。玄関まで来て下さい」と、寮の全室に知らせるアナウンスがあったのです。そこにいたのは、S師でした。頭痛、腹痛以外に、もう痛いという嘘をつくものがなくなった私は、そのようなことがあって、S教会に戻るようにされたのです。

 

神は、ご自分のからだであるS師を用いられて、私を愛し、寮まで訪ねて来てくださり、私がイエス様から、教会から離れることがないように、S師を通して、イエス様と教会に戻してくださったのです。そればかりではなく、その後、S師の家で、週一回、夕食をいただいた後、聖書を読む会のマルコの福音書のテキストを用いて、帰納法的な聖書の学び(質問に対して自分で考えながら聖書を読む)を指導してくださったのです。私は、聖書の学びの楽しさを味わい知ることになり、それが、今でも、私にとって大切な霊的財産となっているのです。自分一人で、聖書を考えながら読む楽しさを知って、それ以来、教会から、イエス様から離れることはなくなったのです。聖霊様を通して、昨年から始めさせられた、この恵みの分かち合いを配信することにおいても、そのことが生かされて用いられているのです。

 

この二つの出来事から学ぶ教訓は、他の一般書籍によって翻弄されたり、惑わされたり、また、イエス様から、教会から離れようとするクリスチャンたちの大きな理由の一つは、聖書を読んでもわからないでいること、聖書の読み方がわからないでいること、聖書のことばに立つ信仰が確立されていないこと、聖書のみことばを、自分と自分の生活に結び付けられないでいることにあるのではないかと思っています。その人たちには、自分で、御霊によって聖書を読むことができるように、また、聖書のことばを、自分の生活に適用する指導をして行く必要があります。聖書のみことばを通しての交わりであるデボーションがそうです。

 

私の過去の出来事からの恵みを汲み取る週一の恵みの分かち合いの配信は、そのことを補うもう一つのツールです。ぜひ、ラインの配信を読むことだけにとどめないで、終わらせないで、参考にしつつ、ぜひ、一人一人が、自分のこととして取り組んで、身に着けて欲しいと願っています。そのためにも配信しているのです。

 

聖書に次のようなことばがあります。Ⅰコリント2:9~10節「しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。」

 

ここで、聖書のことばの性質は、目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないものだと言っています。つまり、私たち人間の知性、理性では、聖書のことばは理解できない、悟れないものだと言っておられるのです。また、次のような聖書のことばがあります。エペソ1:17節「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」

 

ここで、神を知るためには、二つのものが与えられる必要があると言っています。一つは、「知恵」が与えられる必要があると言っています。Ⅱテモテ3:15節には「聖書はあなたに知恵を与えて」とあるように、聖書から神を知るための知恵が与えられるのです。神を知るためには、もう一つは、「啓示の御霊」が与えられる必要があると言っています。コロサイ1:9節では「あらゆる霊的な知恵と理解力によって」とあるように、啓示の御霊とは、御霊が、神を知るために聖書を解き明かしてくださる、理解させてくださる、悟らせてくださるのです。聖書を通して、神を知るための知恵が与えられ、啓示の御霊を通して、神を知るための聖書の理解が与えられるように、いつでも、聖書を読む時に、栄光の父なる神様に祈り求めることが必要なのです。一度、経験したら、それ以後は、自動的に与えられるものではないのです。毎日、日々、聖書を読む時、神を知るための知恵と啓示の御霊を執拗に祈り求め続けていく必要があるのです。

 

ヨハネ14:26節「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ16:13節「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」ルカ11:13節「ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることは知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」と、確かな約束が与えられています。

 

ハレルヤ!

 
 
 

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