2.私が救いに導かれたプロセス(2)
- funaborigracechape
- 2023年11月13日
- 読了時間: 9分
前回、英語クラブの顧問の英語教師を通して紹介していただいた米国人の英語教師が、キリスト教のルーテル教団のF宣教師であったこと、そして、初めて教会の礼拝に出席したことを分かち合いました。
私は、高校卒業前の最後の英語のレッスンの時に、F宣教師に今まで英語を教えていただいたことの感謝をお伝えし、そして、愛知県での電機会社に就職することをお知らせしました。
私の高校の担任の教師からは、地元のK電力を就職先として勧められていましたが、なぜ、私が、就職先を愛知県に選んだかと言いますと、私は、地元の北九州市から離れた地域に行きたかったこと、でも、初めて実家を離れることもあり、見知らぬ人ばかりの地域に対して少々不安な思いもあり、四女の姉家族が愛知県に在住していたことで、身内が同じ地域にいることで安心感を得られると思ったからです。
F宣教師は、「名古屋には、同じルーテル教団の教会があり、そこでも英語を学ぶことができますよ」と言われて、その教会の住所と電話番号を紙に書いてくださいました。それで、愛知県の電機会社の寮に入って、F宣教師が紹介してくださったその名古屋にあるルーテル教会に出かけました。女性宣教師が対応してくださいましたが、私は、人見知りの性格もあり、教会に対して馴染めそうにもない気持ちもあり、また、会社の寮から結構遠く離れていることもあり、その教会も一度だけの出席でした。それで、私は、キリスト教会との関わりは、もうこれで一切なくなったと思っていたのです。
ところが、会社の寮生で、全く面識のない別の寮棟の先輩のHさんが、私の寮の部屋に来られ、「日曜日に無料で英語を教えてくれる所がありますが、一緒に行きませんか」と誘ってくださったのです。その出かけた先が、その後、私の母教会となるS教会だったのです。
神によって選ばれた人の召しのために、神は、クリスチャンを、その人の許へと遣わされることもあるということです。もし、Hさんが、「キリスト教会に行きましょう」と誘ったならば、私は断っていたと思います。ですから、全知の神は、私のそのような気持ちを全く何も知らないHさんに、私が興味のあった英語を餌にして誘うようにされたのだと思っています。後でわかったことですが、Hさんは、すでにクリスチャンで、Hさんのお兄様は、鹿児島にある教会の牧師でした。一度だけ、Hさんと一緒に飛行機で鹿児島まで出かけ、鹿児島の教会で牧師をしておられるお兄さんにお会いしたことがあります。物静かで穏やかな牧師でした。
私は、S教会での午後からの英語の学びの出席のため、午前の礼拝にも集うようになりました。その教会の方々は、みな良い人たちで親切でした。午前の礼拝が終わると、毎回、Mさんが、「若木さん、今日のメッセージで、わからないところはありませんでしたか」と尋ねてくださいました。私がメッセージを理解するように助けようとされていること、また、私が救われてクリスチャンになって欲しいという善意の思いからされておられることは重々承知していました。しかし、私は、S教会のJ宣教師を初め、クリスチャンたちに対して、高慢にも、キリスト教も含め宗教は、自分で努力もせずに、弱い人たちや、人生の敗北者たちが、助けを求めるところという思いや、イエス・キリストは、確かにキリスト教の開祖であり、愛の人であり、聖人君子の一人であることは認めるが、自分と同じ人間であって、もうすでに死んでしまった歴史上の一人の人間で、神ではないという自分の本心の思いを隠し持っていたのです。私のそれらの隠された思いを、彼らに正直に心を開いて言い表すことはしませんでした。
半年ほど経ったある日曜日の礼拝の時に、J宣教師のメッセージの内容とは全く無関係に、私の耳に音声として聞こえる声ではなく、イエス・キリストを否定し、拒絶する私の固く閉ざされた心の深いところに語りかけられる声を聞いたのです。生まれて初めての体験でした。それは、今から、49年前の、私が19歳の時の出来事でした。それは、「あなたは、わたしを神としていない」という声でした。幻聴ではありません。そこに集まっているJ宣教師を初めクリスチャンには、この声は聞こえてはいませんでした。確かに、私にだけはっきりと聞こえる声で、しかも、私個人に対して語りかけておられる声であることがはっきりと認識できたのです。「この声は、誰の声だろう」と一瞬考えました。私が、その時、そこにいる場所は、キリスト教会です。そして、私は、その教会のJ宣教師を初めクリスチャンに対して、自分の本心である「イエスは、聖人君子の一人で、自分と同じ人間であって神ではない」ということを、ひたすら隠し通していました。だから、この声の正体は、イエス・キリストであると直感的にわかったのです。そして、わかったその瞬間に、聖なる畏れ、畏敬の念を抱いたのです(参照:箴言1:7節「主を恐れることは知識の初め。」)。
イエス・キリストは、十字架につけられて死なれ、墓に葬られましたが、三日目に復活されて、確かに今も生きておられることを、復活されたイエス・キリストのみ声を聞かされたことによって気づかされ、知らされたのです。晴天の霹靂でした。クリスチャンたちが集まって礼拝を捧げている時に、また、クリスチャンたちの集まりである教会に、肉眼では見えませんが、霊的(神格的)存在者としてイエス・キリストがご臨在(存在)しておられることを体験的に知ったのです(参照:マタイ18:20節「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」)。ですから、教会で礼拝を捧げている時に、みことばを宣教する牧師や宣教師や伝道師を通して、神が教会にご臨在しておられることを証しされるのです(参照:Ⅰコリント14:24~25節「しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、心の秘密があらわにされます。こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。」)。
しかし、それだけでなく、直接、その場所に臨在しておられる三位一体の神様(父なる神様、イエス様、聖霊様)が、個人に向けて語られることがあることも自らが体験してわからされたことです。その場合、聖なる畏れのゆえに、他の人々に、しばらく当分の間、心を開いて話すことができないこともあるのです。「死人に口なし」と言いますが、イエス・キリストは、今も生きておられるお方であるから、私たちの隠された思いや考えを見抜かれて、私たち個人に向けて語られるのです(参照:マルコ2:6~8節「ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。」)。
そのことによって、私は、J宣教師を含め、クリスチャンをどんなに上手くごまかすことができても、神(イエス・キリスト)をごまかすことはできないことを体験的に知らされたのです(参照:ガラテヤ6:7節「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方でありません。」)。そして、その日に、J宣教師に「今日、私はイエス様を信じます」と言ったのです。
半年間も教会に集っていながら、何度となく反発していたのを、J宣教師を初め、教会の方々は知っておられたので、J宣教師が、「若木さん、どうして、今日、イエス様を信じるのですか」と驚かれて聞かれたことを今でも覚えています。しかし、復活されたイエス・キリストのみ声を聞いたこと、復活されたイエス・キリストに人格的(神格的)に出会ったことをJ宣教師を初め、教会のクリスチャンの方々も含め、他の誰にも話すことはできませんでした。それほどの強烈な聖なる畏れであったのです。
それまで、私は、もうすでに死んでしまった歴史上の人間としてのイエス・キリストとして考えていたのですが、その考えは完全な誤りで、根本的に考えが変えられたのです。イエス・キリストは確かに人間ではありますが、ただの人間だと、それも、もうすでに死んでしまった歴史上の一人の人間だと決めつけ断定し、神性を否定し、イエス・キリストを神と認めず、イエス・キリストを軽蔑し、イエス・キリストを冒涜(侮辱)し、イエス・キリストを畏れ敬うことをせず、イエス・キリストを人であるとともに、神であるお方であることを信じない私の罪(罪人である私)のために、身代わりとなられて十字架につけられたことを通して、聖霊様によって、罪人の私のために、イエス・キリストは必要なお方であると、心の目が開かれて悟らされたのです。(参照:ローマ1:21節「神を神としてあがめず、感謝もせず」、ヨハネ16:9節「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。」、ルカ5:31~32節 そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」)
復活されて、今も生きておられるイエス・キリストの「あなたは、わたしを神としていない。」という御声を聞いて、その日に、イエス様を神様として信じていない私の罪(罪人である私)のために十字架につけられたこと、そして、人間であると同時に、神でもあるイエス・キリストを信じ受け入れたのです。J宣教師を初め、教会のクリスチャンたちも驚いていました。
しかし、一番驚いたのは、私です。イエス様が、今も生きておられるとは、私にとって、青天の霹靂の出来事であったからです。神の選びの主権と不思議と恵み、私の側の一切を問わない、神の一方的な選びの愛と恵みを体験をさせられたのです。
あなたも、19歳の過去の私と同じように、イエス・キリストを、そのように思い、考え、見ていないでしょうか。また、イエス・キリストに対して、そのような態度をとっていないでしょうか。この恵みの分かち合いを通して、また、聖書を購入されて読まれることを通して、さらに、あなたの近くにあるキリスト教会(注意:統一教会、エホバの証人、モルモン教などの異端の教会は除く)の礼拝に出席されて、聖霊様があなたの思い、心を探られて、今も生きておられるイエス・キリストとのご臨在の体験、み声を聞く体験、出会いの体験に導かれ、イエス・キリストを信じる者とされますように。
「イエス・キリスト様、あなたは人間であるとともに、本当に神であられるのですか。そして、あなたは本当に今も生きておられるのですか。」と、真摯な心持ちで、日常生活の中で、しばらく集中されて、尋ねられることをお勧めします。
ハレルヤ!
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