私が5歳の頃、自分のいる船に向かって流れてくる海上にあるボールを取ろうとしている時、誤って海中に落ちてしまったのです。船底まで沈んで行きましたが、何も恐れや不安はなく、全き平安の中で、息苦しさは何一つなく、目を開けていて、周りがはっきり明るく見えていた不思議な記憶があります。その後のことは、自分の中に記憶は全くありませんが、母や姉たちの話によると、私の体が、海面に上がって来たところで、救出されたとのことです。
同じく洞海湾で、別の船舶で暮らしていた親戚の子どもが、夜に、おしっこをするために、船のデッキ(家の廊下にあたる)から海中に落ちて、息を吹き返すことなく、召されてしまったことがあります。なぜ、親戚の子どもは、救出されずに召され、私は救出されて生存されたのかは、今現在も完全にはわかりません。
それと同じようなことが、使徒の働き12:1~17節で、ヘロデ王の手によって、ヤコブは殉教したのに、ペテロは救出されたことに見ることができます。この時5歳の私は、まだイエス様を信じてはいませんでしたが、神の主権と、神の私に対するご計画と、神の永遠の選びの中にあったことを、今、振り返って思わされるのです。
この出来事を通して、二つのみことばが、私の心に留まりました。一つは、イザヤ43:1~2節です。だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」
このみことばから、神の私に対するご計画を成就させるために、どんな妨げも、障害も、危機的状況下にあっても、神のご計画を実現させるために神の守りと保護があるということです。
もう一つは、伝道者の書3:1~2節です。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」
このみことばから、私の生死は、神の定めの時の中にあるということです。
使徒17:25節「私たちは神の中に生き、動き、存在している」のです。
アーメン。ハレルヤ!
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