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4.北海道の神学校での忘れられない神様からの大切な学び、お取り扱い、贈り物(4)

4.北海道の神学校での忘れられない神様からの大切な学び、お取り扱い、贈り物(4)

 

前回の最後の文章から、再開します。

 

聖なる神様が、私について言われたことを認めようとせず、反抗し、抵抗する、かたくなで、利己的で、強情で、意地っ張りで、高慢な者を、神のいつくしみ深さ、神の慈愛が、聖なる神様への告白、聖なる神様との同意、悔い改めへと導いてくださるのを体験したのです。

 

その祈りをしていた時には、その後、どのようなことが、私の身に起こるのか、全く知る由もありませんでした。

 

二週間位後に、神様の様々な恵みのみわざが 私の身に起こることは、その時点では、全く隠されていて、全く予期していなかったことであったのです。

 

神学校では、授業のある毎週火曜日から土曜日まで、午前6時から45分間の早天祈祷会がありました。日曜日は、神学生は、それぞれ異なる奉仕教会での礼拝出席と奉仕のため、月曜日は、神学校が休校のため、早天祈祷会は、お休みでした。

 

早天祈祷会を導くリーダーは、輪番制でした。早天祈祷会では、最初リーダーが祈り、次に聖歌から賛美を一曲捧げ、それから、聖書朗読を旧約聖書の最初の創世記から新約聖書の最後のヨハネの黙示録に至るまで、順序通りに1章づつ読み進め、神学生たちが、1節づつ読むようにしていました。

 

その後、早天祈祷会を導くリーダーが、その聖書の一つの章から5分前後でショート・メッセージをしました。そして、最後に全体での時もあれば、2~3人の小グループに分かれる時もあったが祈りの時を持っていました。

 

私は、この午前6時からの早天祈祷会にギリギリ間に合うように起きて、ただ、義務的に出席していたのです。

 

ところが、神様に同意する罪の告白をしてから二週間後に、私の身にある一つの出来事が起こったのです。

 

それは、イザヤ50:4~5節に、「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。神である主は私の耳を開いてくださった。」と、あるように、

 

まず、私は、毎朝午前4時45分の決まった時間に、目覚まし時計ではなく、神様時計によって、「朝ごとに私を呼び覚まし」という、このみことばが、私の身に起こったのです。

 

神様が、「朝ごとに私を呼び覚ましている」ことが、はっきりとわかる体験でした。

 

そのことに関連して、私の身に起こった出来事は、午前6時からの神学生が集まって行う早天祈祷会の前に、「神様と私」の一対一の個人的な交わりを持たせるように、聖霊様が、そのように私を導かれたのです。

 

神学校の敷地内にSH教会がありましたが、その教会の牧師に教会堂をお借りする許可を得て、早天祈祷会に出席する前までの約1時間を、神様との生きた交わりの時を持つように導かれたのです。

 

カセットデッキと、賛美のカセットテープ(当時は、召された小坂忠師の賛美カセットテープ)を持って行き、賛美の時を20分持ち、

 

オー・ハレスビー(ノルウエーの神学者)の書かれた1年365日の黙想の「みことばの糧」(日本キリスト教団出版局)を、その月日のページを読んで20分黙想し、最後の20分を祈りの時を持つように導かれたのです。

 

この時には、まだ、現在のように聖霊様と聖書のみことばそのものからの黙想を通して、デボーションを行う方法を知らなかったのです。

 

そして、その神様との生きた個人的な交わりが、一週間、二週間、三週間と継続されて行く内に、私の身に起こった出来事のもう一つのことは、

 

私の霊、心、魂が、全人的に、聖霊様とみことばに満たされ続けられて、聖霊様からもたらされる愛と、喜びと、平安に満ち満ちていったことです。

 

「ああ!私の霊の内に、心の内に、生きておられるイエス様が、宿り内住しておられる!そして、生きておられる聖霊様も、宿り内住しておられる!」と、

 

このことが、はっきりと実感的に、体験的に、全人的に鮮明にわかる今までに味わったことのない天国のような聖霊様による愛と、喜びと、平安の満たしを体験させていただいたのです。

 

それまで、天国は、私たちの罪のために十字架につけられて死なれ、墓に葬られ、三日目に復活され、そして、昇天されたイエス様が、現在おられる天の御国にのみあるものと思っていましたが、

 

私の霊の内に、心の内に、生きておられるイエス様がおられる、生きておられる聖霊様もおられることで、ここも天国なのだと、霊の目、心の目が開かれて悟らされたのです。

 

私の霊の内も、心の内も、神様の御住まいの場所、神様の家、神様の住居、神様のご臨在の場所であること、そして、そこも天国なのだということを、実感的に、体験的に、全人的に、霊の目、心の目が開かれて悟らされたのです。

 

ルカ17:20~21節「パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。「見よ。ここだ」とか、「あそこだ」とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」と、ある通りです。

 

ある期間、オー・ハレスビーの「みことばの糧」の、その月日のページに書かれてあるショートメッセージを読んでいる時、神様の愛(アガペーの愛、無条件の愛、一方的な愛、無償の愛)によって、自分が愛されている感動に包まれて、涙がとめどなく溢れて仕方がありませんでした。

 

「神様、どうして、こんな高慢な、愛のない、冷たい人間である私を愛されるのですか。こんな醜い、汚れた者を、どうして、愛してくださるのですか。」と、神様の愛に感動して、泣きながら、涙しながら祈ったことを今でも覚えています。

 

今でも思い出すと、その時の感動がよみがえってきます。そのような日々が、しばらく、毎日続いたのです。

 

更に、私の身に起こった出来事は、神様との交わりが、つまらなく、億劫で、退屈な義務感から、楽しみと、喜びと、ワクワクする期待感に変えられたのです。

 

聖霊様との生きた交わり、聖霊様のご臨在を、ひしひしと感じる交わりに導き入れられたからです。

 

そして、それは、聖なる神様との出会いの体験、聖なる神様のご臨在の御前に出る臨在体験を通して、神様と同意する罪の告白をして後、今度は、愛なる神様との出会いの体験、愛なる神様の御前に出る臨在体験に導かれたからです。

 

次の日の早朝の神様との交わりの時を、賛美の時を、「みことばの糧」の次の日の箇所のショートメッセージを読む時を、祈りの時を持つことが、待ち遠しくて、待ち遠しくて、ワクワクしていたのを思い出します。

 

どうして、私たちは、「神様の愛で、自分が愛されている」ことを、知らないでいたり、わからないでいたり、あるいは、単なる頭の知識だけで知っている、わかっていることにとどまっていたりして、どうして、実感的に、体験的に、全人的に知らない、知っていない、わからない、わかっていないのでしょうか。

 

その要因の一つは、神様にある私への恵みの体験から証しできることですが、自分が他人を対象として比較して、自分を見ていることで、神様による自己評価ではなく、自分による自己評価をして生きているからではないでしょうか。

 

「私は、あの人よりも、まだましな人」というような「優越感に浸っている罪人意識」、「善良な罪人意識」、あるいは、「私は、あの人よりも、もっとダメな人」というような「劣等感に浸っている罪人意識」、「邪悪な罪人意識」のどちらかに、支配されているからではないでしょうか。

 

聖なる神様のご臨在の御前に出されて、自分が如何に、「全人的に堕落した絶望的な罪深い人間」であるかを見させられていないので、自分の真の姿を知らないからではないでしょうか、分かっていないからではないでしょうか。

 

神様からご覧になった自分の真の姿を見させられると、「全人的に堕落した絶望的な罪深い自分の姿」がよく見えるし、よくわかるのです。

 

また、その神様による自己評価の自分の姿を、認めようとせず、抵抗し、反発し、反抗する自我、プライドにも気づかされるのです。

 

そして、そのことを通されて後、聖霊様によって、「神様に愛され、祝福を受ける資格も、価値も全くない者である自分」、「神様に愛され、祝福されることが、ふさわしくない自分」という自己認識に導かれた上で、

 

そのような自分に、神様の愛(アガペーの愛、無条件の愛、一方的な愛、無償の愛)と、祝福を注いでおられることが、実感的に、体験的に、全人的にわからされるのです。

 

「恵み」とは、神様から愛と、祝福を受ける資格も、価値も全くない者に与えられるもの、つまり、ふさわしくない者に、神様から愛と、祝福を与えられるものという意味です。

 

神様の御前に、「全人的に堕落した絶望的な罪人」は、本来、神様の愛と、祝福を受ける資格も、価値も全くない者です。ふさわしくない者です。

 

本来、「全人的に堕落した絶望的な罪人」に、ふさわしいのは、「神様からの呪い」です。

 

しかし、聖なる神様のご臨在の御前で、自分が如何に、「全人的に堕落した絶望的な罪深い者」であるかという真の姿を見させられることによって、

 

本来、神様の愛と、祝福を受ける資格も、価値も全くない者に、ふさわしくない者に、与えてくださる神様の愛(アガペーの愛、無条件の愛、一方的な愛、無償の愛)と、祝福の「恵み」を受けていることに目が開かれ、気づかされ、

 

自分に注いでくださる「神様の愛と、祝福の恵み」、「イエス・キリスト様の十字架の愛と、祝福の恵み」に感動するのです。

 

ガラテヤ3:13節に、「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。」と、ある通りです。

 

更に、私の身に起こった出来事は、私は、早朝の神様との交わりだけでは満足できず、更なる神様との交わりに対する強い飢え渇きの心と思いが生じたのです。

 

夕食後、午後7時頃に、一人で自転車で河川敷に行き、誰もいない場所で一時間、神様との交わり、賛美と祈りの時を持つようになるまでに導かれたのです。

 

この神様との生きた交わり、そのことによってもたらされる神的な愛と喜びと平安の満たし、天的な愛と喜びと平安の満たし、霊的な愛と喜びと平安の満たし、聖霊様による愛と喜びと平安の満たし、天国の愛と喜びと平安の恵みの満たし、

 

この恵み、この祝福、この幸福感、この霊的宝がありさえすれば、もう他のものは、何も要らない。もう他のことは、どうでも良いとさえ思えるようになったのです。

 

「愛、初めて知った。イエス様(聖霊様)に出会ってから。愛、それは湧き上がり、満たし、生かす。私たちの心を。」

 

「喜び、初めて知った。イエス様(聖霊様)に出会ってから。喜び、それは湧き上がり、満たし、生かす。私たちの心を。」

 

「平安、初めて知った。イエス様(聖霊様)に出会ってから。平安、それは湧き上がり、満たし、生かす。私たちの心を。」

 

この聖霊様による愛と喜びと平安の満たし、天国の愛と喜びと平安の満たしを、霊と、魂の感情においても体験できる交わりが、日々継続されていったのです。

 

そして、私は、霊だけでなく、魂の感情においても体験できるこの満たされた状態が、今後も、いつまでも、ずっと続くものと思っていたのです。

 

次回に続く。

 

ハレルヤ!

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