4.私が名古屋のキリスト教書店に勤めていた時の懐かしい思い出(4)
- funaborigracechape
- 2024年1月22日
- 読了時間: 6分
私は、店内での仕事の他に、愛知県と岐阜県にある教会を対象に、地域別に、定期的に巡回して注文を受けた書籍や用品を届けたり、委託書籍の清算などの外回りの営業を行っていました。また、営業拡大を目的に、別の系列の書店と関わりのある教会にも出向いて行き、新刊本を含む書籍を車に積み込み、移動販売もしていました。
その後、もう一人の男性社員が入社したことから、愛知県の地域の教会を彼と二分し、彼は、岐阜県全域の教会を、私は、それまで未営業の地域であった三重県全域の教会を新規開拓することになったのです。
三重県の教会の営業に行く時は、О店長の許可を得て、四日市にある教会のH師に電話でお願いし、教会に泊めさせていただいて、次の日も、教会を営業訪問して、自宅に戻るという一泊二日の仕事と生活をすることにしました。そのH師は、私が勤めている会社から出版している5冊ほどの書籍の著者であったこともあり、教会泊を快諾してくださったのです。H師は、気さくで、優しく、親切な先生で、ご自分の著書を、100冊、150冊、200冊と大量注文して下さったり、私の寝床を準備して下さったり、朝食をご家族と一緒にさせてくださったのです。私を家族の一員のようにして接してくださったのです。
そのように、もう一人の男性社員が入社したことと、営業地域を拡大したことなどの神様の恵みのおかげで、ある年は、同じ系列のキリスト教書店で、全国で一番の売り上げアップを達成したのです。
勤めてから3年目に、О店長から、「若木君、これから、君をこの名古屋のキリスト教書店の店長にするために指導教育をします。」と言われたのです。その時、私は24歳でした。当時、この系列のキリスト教書店は、若い世代を指導教育し、主への信仰によって店長としての責任を持たせ、苦労させ、鍛えさせる体育会系のような傾向にあったように思います。
「このことは、いい加減な気持ちで引き受けることはできないし、引き受けてはならない。確かな神様からの召命が必要だな」と思いました。それで、「私が、神様から、文書伝道の召命を受けていれば大丈夫ですが、そうでなければ、会社にも、О店長にも、ご迷惑をおかけすることになりますので、神様のみこころを求めさせてください」と、О店長に申し出て、了承してくださったのである。
「イエス様、私はこのまま、キリスト教書店に勤め、店長を引き継ぐ文書伝道に召されていますか。どうですか。」と、毎日、仕事を終えて、自宅に戻ってから、聖書を開き、お祈りをして、主のみこころを尋ね求める時間を持ち続けたのです。
そうこうしている内に、ある時、求道者(天地万物の創造者の神様や、聖書に興味関心を抱いていて、キリスト教会の礼拝や集会に出席しているが、でも、まだ、イエス様を信じ受け入れておらず、洗礼を受けていない人のこと)が店に来られたのです。私は、その人に、「少し時間がありますか」と、尋ね、同じビルの同じ階にあるS教会に導いて、イエス様のことを伝えたのです。それまで、そのようなことを一つもして来なかったのに、とにかく、他にも求道者の方が、店に来られると、店内でのお客様が少数であれば、О店長の許可を得て、そのようにするようになったのである。いや、今振り返って見ると、神様によって、そのようにさせられたように思うのです。
また、私は、S教会に来られた求道者の一人の青年を、毎週日曜日の集会後に、自宅に招いて一緒に聖書勉強をして、救いに導くようになったのです。学びの後は、一緒に夕食をするようにしました。私が簡単な料理を作ったり、家の近くにある他教会のクリスチャンが経営している食堂に行って食べたりしました。また、近くにある銭湯にも一緒に出かけたりもしました。
毎週日曜日、自宅での救いに導く聖書勉強の時に、「今日、イエス様を信じ受け入れませんか」と、何度も決心を促したが、信じますと、首を縦に振ることは一切ありませんでした。数カ月が過ぎても、一向にイエス様を信じ受け入れようとしないので、S教会のS師に、この青年に対して、「聖書を何度も開いて勉強して、イエス様を信じ受け入れるように促しましたが、一向に信じ受け入れようとしないので、この青年はダメです」と、私があきらめて、見切りをつけるように伝えると、S師は、神様の働きに委ねながら継続するようにとアドバイスをしてくださったのです。そのアドバイスがあって、その青年との聖書の学びと交わりを継続していきました。そして、ある日曜日に、いつものように、聖書勉強をして、夕食を終えた後、テレビでお笑い番組を一緒に見ている時に、その青年が突然、「若木さん、僕、今日、イエス様を信じます」と言ったのです。私は驚いて思わず「どうして信じるの」と聞き返しました。
今、振り返って思いますと、導く私の忍耐と、求道者の青年の救いのために、S師は、執り成しのお祈りをしてくださっていたのだと思います。勿論、イエス様も、聖霊様も、執り成しのお祈りをしてくださっていました。私は、聖書を開いて、聖書勉強をして、イエス様のことを語って、イエス様を信じる決心を促すことで、自分がその青年を救わなければと気負っていたのです。聖書勉強をしていた時ではなく、お笑い番組を一緒に見ていた時に、神様が彼の心に働かれたことによって、この青年はイエス様を信じ受け入れたのです。まさしく、人を救いに導くのは、自分の判断による選び、自分の能力、自分の知恵、自分の方法、自分の時、自分のわざではないことを、神様が私に教えてくださったのです。神様の判断による選び、神様の能力、神様の知恵、神様の方法、神様の時、神様のみわざによって、人は救いに導かれるのだということを、求道者の青年を目の前にして、実体験として見せられたのです。
次のような聖書のことばにある通りである。
Ⅰコリント12:3節「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」
ヨハネ1:12~13節「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
ゼカリヤ4:6節「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」
聖書のことばからの示しはありませんでしたが、毎日、店長になることが、みこころかどうかを尋ね求める祈りをし始めてから、このような出来事が起こった変化でした。そのことから、文書伝道は、確かに重要な大切な働きであるが、神は、私に、間接的に人と関わる働きではなく、直接的に人と関わる働きに導かれているのではないかと思わされたのです。それで、S教会のS師に相談した後、О店長に、そのように証しをさせていただいて、「神様は、私を、この書店の店長として文書伝道の働きに召しているのではなく、神学校での学びを受けさせ、牧師の道を歩ませようとされているように思いますので、2月末で退職させてください」と、今までの感謝をお伝えし、承諾していただいたのです。
導きを祈り求めることで、聖書のことばを通して導かれることもありますが、状況的な変化、自分の内外に神様が起こされるみわざによる変化を通しても、主は、ご自身のみこころを示されることもあるのだということを体験的に学ばされたのです。
ピリピ2:13節「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」
ハレルヤ!
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