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4.船舶生活での懐かしい思い出(4)ー5歳の頃、父に突然、洞海湾に放り投げられたエピソードー

私が5歳の頃、ボールを取ろうとして海に落ちて救出されたことを、以前に分かち合いましたが、その後の出来事を通して神様の恵みを分かち合います。ある日突然、父に一言も何も言われずに、服を着たままの5歳の頃の私は、船から洞海湾に放り投げられたのです。その時の5歳の頃の私は、まだ泳ぐことが出来なくて、全身が海に落ちた瞬間、恐怖心でいっぱいになりました。ただ、「助けて」と叫びながら、手足をバタバタする以外しかありませんでした。このままでは溺れて死んでしまうと思い、必死になって手足をバタバタ動かしていたように思います。


 


その私の姿を父はずっと見ているだけで、私のところまで泳いで来て助けようとはしてくれませんでした。また、その時、母も兄も姉たちも見ていましたが、誰一人、私を助けようとはしてくれなかったのです。しばらくして、父は私のそば近くに縄のロープに繋がれた「木製のはしご」を投げ込んで、「それに捕まるように」と叫びました。そして、私は、それに捕まって引っ張られて、船に上がって助かったのです。


 


この出来事を思い出し、聖霊様と聖書のみことばによって、思い巡らし、黙想してみました。当時の5歳の頃の私は、父に「なぜ、僕を洞海湾に放り投げたの」と聞くことをしませんでしたし、父も、私をどうして洞海湾に放り投げたのか、その理由と意味を教えてくれませんでした。そのことの理由と意味が、はっきり分からないまま、未解決のまま、記憶が埋もれたままになって、長い年月だけが過ぎていったのです。


 


今から6年前(2017年)に、私は、愛知県在住の四女の三子姉さんと一緒に、2年前(2021年)に召された次男の生冶兄さんのお見舞いに、北九州市の実家に帰省した時のことでした。夜の団欒の時に、三子姉さんが「私が子どもの頃、父ちゃんに洞海湾に放り投げられた時があってね」と話し出したことで、自分の5歳の頃の出来事の埋もれたままになっていた記憶が思い起こされ、自分のこととして重なったのです。それまで、私は、父が洞海湾に放り投げたのは、自分だけにしたことだと思っていたのです。しかし、「私だけではなかったのか」と、その時に初めて知ったのです。そして、父は、四女の三子姉さんだけでなく、兄や他の姉たちにも同様のことをしていたことも初めて知ったのです。だから、当時、父だけでなく、母や兄や姉たちも、私を見ているだけで、助けることをしなかったのかと理解し、ガッテンしたのです。


 


今日に至るまでの私の神様との関係においても、同じように、試練を通されるその時には、理由も意味もわからず、また、神様は明らかにされずに、面食らってしまうこと、不安、心配になり、恐怖心さえ抱き、「動揺することさえあったなぁ」と思わされたのです。そして、そのような時、「自分だけが通されているように思ったことが何度もあったなぁ」と、神様との関係においても重なったのです。でも、聖書は、Ⅰコリント10:13節で「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。」と語っています。


 


神様は、同じような試練を自分だけでなく、ある兄弟姉妹たちには、過去において、すでに経験させ、また、ある兄弟姉妹たちには、将来において、これから経験させられるお方であることを知ることでホットします。そして、私の肉の父は、自分の手から、助けと救いの縄のロープで繋がれた「木製の一つのはしご」を投げて、脱出の道を備えてくれたように、確かに、その時々に、私の霊の父は、ご自分の御手から助けと救いの十字架のロープで繋がれた「霊的な一つのはしご」(創世記28:12節では、天から地に向けて立てられているはしご、ヨハネ1:51節では、そのはしごは、人の子であるイエス・キリスト)を通して、脱出の道を備えてくださったのです。Ⅰコリント10:13節「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」と、ある通りです。


 


そして、三子姉さんは、更に続けて「父ちゃんは、私たち兄弟たちが、洞海湾で溺れて死ぬことがないように、荒療治だったけれど、泳ぎを覚えさせようとして、そうしたのよね。誰一人、兄弟たちが洞海湾で死ぬことがなく、いのちが救われたのは、父ちゃんのおかげだったのよね」と、私が姉に、5歳の頃の事の真相を知ろうとして、質問したわけでもないのに話をしてくれたこと、教えてくれたことで、ずっと未解決のままであった5歳の頃の私の疑問、問題が解決されたのです。


 


以前、私がボールを取ろうとして、洞海湾に落ちたその時は、父が外出中で不在であったことを聞いていました。だから、たとえ、また同じようなことが起こっても大丈夫なように訓練して、早く泳ぎを覚えさせなくてはという父の強い愛の思いから出たことであったのではないかと、今ならガッテンできます。


 


「三子姉さん、未解決だったことの真相を話してくれて有難う。」そして、「すでに召された父ちゃん、荒療治だったけれど、洞海湾で溺れて死ぬことがないように、いのちを救うために、洞海湾に放り投げて、泳ぎを覚えさせようと訓練してくれて有難う。」そして、「神様、父ちゃんを通して、私が洞海湾で溺れて死ぬことがないように、いのちを救うために泳ぎを訓練してくださって感謝します。また、5歳の頃の当時の私の未解決の問題を、三子姉さんを通して解決してくださって感謝します。」


 


そのように、神様からの全ての試練は、私たちを訓練するためであり、私たちに対する強い愛の心から出ているということを、しっかり忘れずに覚え続けていることだと思わされたことです。


 


ヘブル12:5~11節 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」


 


試練に会っているその時に、決して自分だけが通されていることではなく、他の兄弟姉妹たちも、すでに通されてきたこと、また、他の兄弟姉妹たちも、やがて通されること、そして、たとえ、その時に私たちに理由と意味がわからなくても、強い愛の心をもって、全ての試練を通させて、脱出の道である「一つのはしごであるイエス・キリスト」を備えてくださり、私たちの益のため、ご自分の聖さにあずからせようとして祝福するために訓練してくださる三位一体の神様に。


 


ハレルヤ!

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