top of page
funaborigracechape

5.主からの二番目の派遣先である東京の国際福音教会での懐かしい思い出(5)

今日は、デボーション(神との交わり)の仕方を分かち合う予定をしていましたが、聖霊様に導かれましたので、予定を変更してデボーションを行なう動機づけについて分かち合うことにします。


デボーションは、大切なことであり、重要なことであることは、クリスチャンは誰でも知っていることでしょう。


しかし、なぜ、デボーションを行なう必要があるのか、なぜ、デボーションは、自分にとって必要不可欠なものかという、


デボーションを行なう動機づけを、はっきりと明確に掴んでいないと、デボーションをしようとは思わないものです。


ルカ10:42節で、イエス様がマルタに「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」と言われた「必要なことは一つだけ」とは、


39節で「彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」と記されているように、「主の足もとに座って、主のことばに聞き入る」という「神との交わりであるデボーション」のことです。


まず、デボーションは、何よりも神様の方が私たちよりも先行されて、私たち(神と私、神とあなた)との個人的な交わりを欲しておられる、望んでおられる、楽しみにしておられる、喜びとしておられる、待ちわびておられるということを知ることです。


ですから、もし私たちが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていないなら、主は片思いのようなお気持ちになられて、寂しい思い、悲しい思いを抱いておられるのです。主のそのようなお心、御思いを知ることです。


ですから、神様ご自身の必要のために、神様のお心を楽しませ、喜ばせ、満たすために、デボーションをするのです。これが、デボーションを行なう動機づけの一つです。


次には、私たち自身のために必要だからです。


詩篇27:4節で、ダビデは「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために」と言われた「一つのこと」とは、


「私のいのちの日の限り 主の家に住むこと」、「主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために」と記されているように、「神との交わりであるデボーション」のことです。


ダビデは、自分のために、デボーションが必要だと言っています。


では、なぜ、私たち自身のために、デボーションが大切であり、重要であり、必要不可欠なものであるのか、ジョージ•ミュラーが、デボーションを行なう動機づけの証しを紹介したいと思います。


「幸いに主は私に一つの大切な真理を教えてくださいました。そこからいただいている祝福を私は十四年間やり続けております。毎朝私が一番先にしている仕事は、主の中で私の魂が幸せになるようにすることです。


これが一番だということを、私はこの十四年間にはっきりと悟りました。私が一番気を使うべきことは、私が神様のために何をするか、何をすべきかということにあるのではなく、


どういうふうにして私の魂が幸福の状態に至り、どういうふうにしたら私の内なる人が強く育てられ、成長するかということにあります。


私たちは、不信者たちに見せようとして、真理を研究することもあり、またもうすでに信じているクリスチャンたちに何か教えようとして務めることもあります。


苦しんでいる人を慰めようと務めることもあります。また色々な方法を通して、この世の中で神様の子どもらしく、行ない、生活しようと務めることもあります。


しかし、主イエスの中での私の魂が幸せにならないで、私の内なる人が新しくならないでは、こういうすべての努力と勤めは中身のない、空っぽのものに過ぎません。


私は朝起きるとすぐ着替えて、主の前にひざまづいて簡単に祈りをささげます。そして早速神のみことばを開き、そのみことばの黙想を始めます。


そしてそれを通して私の心に慰めと教訓をいただき、主との実際的な交わりを保つことがどんなに大事かということを悟っております。


ですから朝起きると聖書を読み、そして黙想し始めます。そのみことばの中にある主の祝福は何かを簡単に考えてから、すぐそのみことばに対する黙想を始めます。


つまり、毎日聖句からどういう祝福があるかを捜します。色々な働きのためでもなく、メッセージを準備するためでもない、ただ私の魂の糧を捜し、その祝福を求めます。


その結果はいつも同じです。何分も過ぎないうちに私の魂は告白と感謝、とりなしと願いをささげるようになり、そしてそれは深い深い祈りに導かれます。


この方法は、以前私がしていた方法とは違います。以前は起きてからできるだけ早く祈りを始めました。そして普通、朝ご飯を食べる時までずっと祈りでの時間を過ごしました。


特に私が自分の魂が渇いていると感じる時は、もっと祈りの時間を長くしようと務めました。その結果はどうだったでしょうか。ひざまずいて、十五分、三十分、一時間が過ぎるまで私は自ら自分の魂を慰めようと務めます。


勇気を与えようと、もっと謙遜になろうという自己意識に陥って祈り続けますが、多くの場合、三十分以上私は色々な心の騒ぎや雑念に悩まされなければなりません。それからやっと、祈ることができたのです。


しかし、今はそういうことはほとんどありません。私の心が神様のみことばを通して、すぐ実践的な交わりに入るからです。


そしてその尊いみことばを通して私に神様の祝福、戒め、慰めを与えてくださり、またその御声に答えて神様に祈るからです。


どうして、もっと早くこういうことを知らなかったのだろうかと考える時が多いです。」


以上。


Iヨハネ1:3〜4節「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス•キリストとの交わりです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」


ハレルヤ!

閲覧数:7回0件のコメント

最新記事

すべて表示

7.主から遣わされた三番目の東京の国立の教会における懐かしい思い出(7)

前回からの続き 続いて、開拓伝道における主のみこころを尋ね求めたのです。知り合いの牧師ご夫妻が、すでに幼児保育を通して、千葉県で開拓伝道の働きをされていたことを知っていたこともあり、また、由起子さんが教員免許を持っていましたので、その牧師ご夫妻を訪ねて、色々と実情をお聞きし...

6.主から遣わされた三番目の東京の国立の教会における懐かしい思い出(6)

私たちが国立の教会に赴任する前に、米国の宣教団体から三年契約の申し出がありました。そして、その三年間の契約期間が終了間近になりました。 米国の宣教団体の責任者のS師からは、引き続き、この国立の教会で、私たちに奉仕をして欲しいという依頼を受けましたが、辞任の申し出をさせていた...

5.主から遣わされた三番目の東京の国立の教会における懐かしい思い出(5)

前任の日本人牧師が辞任されてから、教会から離れていた80代のS兄がおられました。ある日、教会員の70代のO姉から、S兄の自宅への訪問の依頼を受けました。 それで、O姉と一緒にS兄の自宅へ、「国立の教会にP宣教師のアシスタントとして、赴任することになりました若木です」と、挨拶...

Comments


bottom of page