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6.北海道の神学校での忘れられない神様からの大切な学び、お取り扱い、贈り物(6)

6.北海道の神学校での忘れられない神様からの大切な学び、お取り扱い、贈り物(6)

 

前回の最後の文章から再開します。

 

そして、聖霊様は、この聖書の約束のみことば通り(参照:ルカ11:5~13節)、二ヶ月後、メッセージテープを用いて、「では、何故、どうして、聖霊様による幸福感の満たしが、私の魂の感情から取り去られ、消え去ったのですか。」という、私の神様への問いかけに対して、その理由を求める私に対して、回答を与えてくださったのです。

 

ある日、神学校での授業を終えて、自分の部屋で一人、横になって休んで、メッセージテープのメッセージを、ウトウトとしながら聞いている時のことでした。

 

私は、自分が抱えていた魂の感情に関する必要な神様からの回答を得ようとしていましたが、得られない状態が長い期間続いていたので、何も期待もせずに、ウトウトしながら聞いていたのです。

 

私が、ウトウトしていたその時、「若木、若木」と、私の霊に、心に呼びかける声を聞いたのです。他の神学生が、私の名前を呼ぶ声ではありませんでした。また、夢を見ていた中での誰かの人の声でもありませんでした。そして、幻聴でもありませんでした。

 

神様が、私の名前を二回呼びかけるこの出来事は、その時が初めてのことでした。それ以後、現在に至るまで、二度目は体験していません。

 

私の魂の感情でも、愛と喜びと平安に満たされていた状態から、神様は、なぜ、私の魂の感情から、愛と喜びと平安を取り去られ、消え去らせたのか、

 

その理由を求める私に、神様が回答を与えるために、神様のみこころを知らせるために、私の目を覚まして、注意深く、そのメッセージテープのメッセージを聞かせるようにさせる目的で、「若木、若木」と、私の名前をニ回呼んでくださったのだと理解しています。

 

そのメッセージテープは、どういうルートで、どこから、誰から入手したのか、また、そのメッセージテープは、その後、どうしたのか、また、どうなったのか、

 

そして、そのメッセージテープのメッセンジャーが、誰であったのかも、今では全くわかりませんし、思い出せませんし、記憶にないのです。

 

それは、私に、そのメッセンジャーに栄光を帰させることのないように、ただ、神様だけに栄光を帰させるために、聖霊様が、そのように、今では全くわからないように、思い出させないように、記憶に残らないように、隠されたのではないかと思っています。

 

不思議なことですが、その時にだけ、私の求めに対する必要なものとして、そのメッセーテープが、「神様からの贈り物」として与えられたものであったのだと思っています。

 

そのメッセージテープのメッセンジャーが、「私は聖霊に満たされたが、ある時、喜びの感情が消え去ったのです。」と、ご自分の証しをし始めたのです。

 

「自分と同じ体験をしている人だ。」と、自分の霊も、心も、霊の耳も、聖霊様によって、真剣に聞き入るように導かれたのです。

 

続けて、そのメッセンジャーは、「私は、その聖霊の満たしによる喜びの感情を取り戻すために、何か、罪を犯したのではないかと、聖霊様にお聞きしたのですが、示されなかったのです。」と、証しされたのです。

 

「私も同じことをした。」と、更に、霊も、心も、高揚したのです。

 

更に続けて、「私は、聖霊の満たしによる喜びを取り戻すために、聖書を読んだり、信仰書を読んだり、賛美を捧げたり、断食の祈りもしたのです。」と、証しされたのです。

 

「私は、聖書を読んだり、聖霊様に関する書籍を読んだり、賛美を捧げたり、祈りはしたが、断食の祈りはしなかったな。」と、いちいち、そのメッセンジャーの証しに応答しながら、引き付けられて、聞いていたのです。

 

聖霊様が、そのように導いてくださっていたのです。

 

そして、最後に、聖霊様は、その名前も知らないメッセンジャーを通して、私に必要な回答、聖霊様からの回答を聞かせてくださったのです。

 

そのメッセンジャーは、「とうとうある時、私は、聖霊の満たしは、感情ではなく、信仰によって満たされ続けていくものであるということを、私に教えるために、私の魂の感情から、喜びを取り去ったのだと、主から語られたのです。」と、証しされたのです。

 

この証しを聞いて、今まで、曇り空のような、どんよりとしていた天気のような霊的状態から、瞬時に、太陽がさんさんと輝いて見える、快晴の天気のような霊的状態に引き上げられたのです。

 

聖霊様が、このメッセンジャーの証しを用いられて、私に語ってくださったことが、はっきりとわかる体験でした。

 

聖霊様は、このメッセンジャーの証しを用いて、私が抱えていた聖霊の満たしの魂の感情に関する問題に明確に答えてくださったのです。

 

そして、聖書のみことばによる根拠は、ヨハネ7:38節にあります。

 

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、(参照:イザヤ12:3節「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から。)その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 

イエス様が、「生ける水の川が流れ出るようになる」という聖霊の満たしを、私が感じる魂の感情から取り去られ、消し去らせたのは、私が自分の魂の感情に拠り所を置くのではなく、

 

「わたしを信じる者は」とあるように、イエス様を信じる信仰と、

 

そして、「聖書が言っているとおり」とあるように、聖書のみことばを信じる信仰に、

 

拠り所を置かせるためであったのだと、ガッテンしたのです。

 

そして、聖霊様は、今度は、書籍を用いて、更に、私にプラスアルファの恵みを加えて、与えてくださったのです。

 

次回に続く。

 

ハレルヤ!

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