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6.船舶生活での懐かしい思い出(6)ーこの世と神の国との異なる価値観のエピソードー

登校時において、八幡製鉄所の南門を通過すると、しばらくして、地下道がありました。その地下道を通って、階段を上って外に出ると、すぐ近くに小さな売店がありました。私は、船舶仲間の子どもの一人が、登校時に月曜日から土曜日まで、その売店に立ち寄り、店主のおばさんに、お金を払わずに、牛乳をもらって飲んでいるのを何度も見かけました。


 


私が小学1年生の頃でしたが、「ああ、この売店では、お金を払わずに牛乳をただで飲めるのか」と思って、友だちの一人に「あの売店で俺たちも、ただで牛乳を飲ませてもらおうぜ」と誘ったのです。すると、その友だちは「お金を払わずに、ただで牛乳が飲めるわけがないやろが」と言って誘いに乗らなかったのです。その友だちは、普通の常識のある子どもでした。


 


それで、特別非常識の私だけが、店主のおばさんに「牛乳をください」と言って飲んだのです。そして、牛乳を飲んでから店を出ようとすると、おばさんから「お金を頂戴」と言われたのです。それで、「船舶仲間の子どもの一人が、月曜日から土曜日まで、この店に入っては、お金を払わずに、おばさんから牛乳をただでもらって飲んでいるのを何度も見かけたので、この店では牛乳をただで飲めるのかと思いました。」ということを正直に話したのです。すると、おばさんは「それは、あの子のお母さんが、一か月分の牛乳代金を前払いしているからなのよ」と話してくれたのです。「それじゃ、下校後に母に言って、お金を持ってきます」と伝えたのです。この時、牛乳飲み逃げの犯罪者として、警察署や平原小学校に通報されずに、神様によってあわれみを受けて済んだのです。下校して、そのことを正直に母に伝え、母と一緒にその店に行き、おばさんに謝って代金を支払ったのです。当たり前のこと、当然のことではありますが、ただではなかったのです。代価が必要であったのです。


 


話は変わって、私が、小樽の教会で牧会していた時のことです。ある時、札幌のデパートで、星野富弘詩画展を開くことが決まったのです。それで、星野富弘さんの書籍を販売することで、文書伝道を兼ねて、開催費用を賄うことになったのです。それで、北海道全域のそれぞれの地域から協力してくださる一つの教会を拠点にして、書籍の販売をすることになったのです。


 


星野富弘詩画展の実行委員長は、私が卒業した神学校の教師でもあり、私と同じ群れの教会に属する先輩牧師のH牧師でした。そのH牧師から、小樽地区の販売拠点になって欲しいとの依頼を受けて、私は承諾したのです。早速、200冊位のさまざまな書籍が、ダンボール箱で送られてきました。


 


まず、小樽地区の全教会の牧師たちを訪問し、星野富弘詩画展の趣旨を説明し、書籍の委託販売の協力をお願いしましたが、「教会員は皆、星野さんの本を持っているからね」という理由で、協力を受けることは皆無でありました。何人かの牧師は、協力してくださるだろうと思っていただけにショックは大きかったのです。しばらく途方に暮れていると、妻の由起子さんから「道路沿いにあるガラス屋店に、お花の絵画が飾られていたので、その店主は、お花の絵画に興味があると思うので、そこに置いてもらったらどう」と提案を受けたのです。そこで、そのガラス屋店に出向いて、星野富弘詩画展の趣旨を説明し、二週間後に、清算に来ますと伝え、何冊かの本を委託させていただくことができたのです。


 


書籍が売れていることを期待して二週間後に、そのガラス屋店に出向きましたが、店主は「紹介したのだけれど、だれも買ってくれなかったのよ。ごめんなさい。申し訳ないので、私が買います」と言って、二冊買ってくださったのである。この二冊が最初に売れた本でした。それから、小学校、中学校、高校、大学に出向き、教頭先生に面会し、星野富弘詩画展の趣旨をお伝えしたのです。すると賛同して協力してくださる学校が次々に起こされ、書籍の委託販売をお願いすることができたのです。ある高校の教師たちからは、書籍だけでなく、カレンダーも持ってきて欲しいとの依頼も受けたこともありました。


 


また、この頃、毎週一回、妻の由起子さんと一緒に、小樽の老舗の金物屋を営んでおられた社長夫人宅にて聖書勉強に出かけていました。今までの人生で関わった中で、一番の豪邸でありました。余りにもたくさんの部屋があるので、こっそりとホームレスの方が忍び込んで一時期、住んでいたこともあったそうです。社長夫人との関わりが導かれた経緯は、同じ群れに属していた別の教会の教会員で、すでに洗礼を受け、クリスチャンとなっていた妹さんが、まだ、未信者であった姉である社長夫人を連れて、小樽の教会の私たち夫婦に面会に来てくださって、信仰を導いて欲しいとの依頼を受けたことから、姉の社長夫人も同意の上、聖書勉強が始まったのです。感謝なことに、姉の社長夫人も、姉妹方のお母様(すでに召されたが)も、御霊とみことばの恵みのみわざによって救いに導かれたのです。


 


その姉の社長夫人にも、星野富弘詩画展の趣旨をお伝えすると「養護学校で働いている知人の教師に紹介しますので、10冊ほどお預かりします」と言ってくださったのです。すると、翌週、出向いていくと「評判がいいので、更に20冊お預かりします」と言ってくださったのです。その方のルートを通してだけでも、150冊ほど売れたのです。最終的には、すべて合わせて、350冊位の書籍が売れたのです。驚くべき神様の恵みのみわざでした。


 


この札幌開催での星野富弘さんの詩画展と、文書伝道を通して、救いに導かれておられる方がおられるかもしれません。伝道者11:1節「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」、伝道者11:6節「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれか どちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。」


 


星野富弘詩画展が終了後、H牧師は、北海道の全域で協力してくださった牧師たちを招いて感謝会を開いてくださったのです。H牧師は、冒頭の挨拶で、協力してくださった牧師たちに贈り物を用意してありますと言われたのです。350冊は、二番目に多い売上販売数でした。


 


一番は、530冊ほどであったように思います。「だから、私は、二番目に良い贈り物がもらえるだろう」と、浅ましい考えが脳裏をよぎったのです。マタイ20:10節に「最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが」とあるように、このぶどう園の働きに最初に来た者たちの心境と同じであったのです。すると、H牧師は、「主の教会は、神の国の価値観に生きることであり、その価値観は恵みなので、贈り物はみな同じ恵みのものです」と言われたのです。このH牧師を思い出す度に「恵み」ということばを思い出すのです。


 


私は、その後、聖霊様の導きにより、そのH牧師が属する同じ群れの教会から離れ去り、以後、二つの教団、三つの教会で奉仕するように導かれてきましたが、このH牧師から、私が神学校を卒業して以来、今年に至るまでの40年間、毎年、年賀状が送られてきているのです。2年前(2021年)は大病されて、半年間ほど入院されたそうです。今でも、私だけでなく誰に対しても「恵み」で関わっておられのでしょう。


 


この二つの出来事を通して、この世の基準、価値観は、当然受ける資格も価値のある者に与えられる「人間の側における代価」であること、しかし、神の国(教会)の基準、価値観は、決して受ける資格も価値のない者に与えられる「神様の側における恵み」であることをしっかり分別することを思い知らされたことです。


 


Ⅰコリント15:10節「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」


 


恵みを基準、価値観にして、私たちに関わってくださる三位一体の神様に。


 


ハレルヤ!

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