top of page

7.北海道の神学校での忘れられない神様からの大切な学び、お取り扱い、贈り物(7)






前回の最後の文章から再開します。


イエス様が、「生ける水の川が流れ出るようになる」という聖霊の満たしを、私が感じる魂の感情から取り去られ、消し去らせたのは、私が自分の魂の感情に拠り所を置くのではなく,

「わたしを信じる者は」とあるように、イエス様を信じる信仰と、


そして、「聖書が言っているとおり」とあるように、聖書のみことばを信じる信仰に、拠り所を置かせるためであったのだと、ガッテンしたのです。


そして、聖霊様は、今度は、書籍を用いて、更に、私にプラスアルファの恵みを加えて、与えてくださったのです。


私が、名古屋でのキリスト教書店に勤めていた時、聖霊様の力の恵みを、一時的に体験したことを、以前に分かち合いましたが、


その当時から、「一時的ではなく、では、どうすれば、持続的に、継続的に、聖霊様に満たされ続けられるのだろうか」ということに関しても、神様からの回答を、私が必要としていたのです。



そのことが、私が必要とするプラスアルファの恵みであったのです。


そして、聖霊様は、キリスト教会の福音派に属する、英国人のジョン・ストット博士の著書の「今日における聖霊の働き」(いのちのことば社出版)を通して、プラスアルファの恵みをも、私に与えてくださったのです。


それは、聖書のみことばを根拠にしたもので、「どのようにして、聖霊様に満たされ続けられるか」ということに関する恵みでした。


それは、ヨハネ7:37節の「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」という、聖書のみことばの解き明かしからでした。


だれでも渇いているならとは、「だれでも霊的に渇いているなら」、「だれでも聖霊様に満たされ(続け)ることに渇いているなら」という意味です。


わたしのもとに来て飲みなさいとは、「イエス様のもとに、いつも、毎日、日々、持続的に、継続的に、習慣的に、絶えず来て、聖霊様の生ける水を飲み(続け)なさい。聖霊様に満たされ(続け)なさい。聖霊様の満たしの恵みの体験にあずかり(続け)なさい。)」という意味です。


また、エペソ5:18節の「聖霊に満たされなさい」とは、聖霊に満たされても良いし、満たされなくても良いという、選択の自由を意味しているのではなく、


聖霊に満たされることは、全てのクリスチャンにとって、クリスチャン生活の歩みにおいて、決して欠かすことのできない絶対的に必須なものであるから、聖霊に満たされなさいという命令形で言われているのです。


また、「聖霊に満たされ続けなさい」という継続的な意味のことばでもあります。


そして、聖霊に満たされ(続け)ることの別の言い方、表現としては、コロサイ3:16節にある「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」


以前の訳では、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」です。


これらの一連のことから、聖霊様に満たされ続ける恵みにあずかるためには、「聖霊様のご人格と、聖書のみことばによる交わり」、「聖霊様のご人格と、聖書のみことばによる黙想」、「QТ(QUIEТ ТIME・静思の時)」、「デボーション」を、


一時的ではなく、いつも、毎日、日々、持続的、継続的、習慣的に、絶えず、聖霊様の恵みによって持ち続けさせていただくという、私の側の取り組みも必要であることを教えられたのです。


そして、聖霊様に満たされ(続け)ることにおいて、また、聖霊様との生きた交わりにおいて、最も大切なことは、


聖霊様のご人格を、聖霊様のご臨在を意識しつつ、聖書のみことばの前に、カッコつけずに、飾らずに、隠すことなく、弱さのあるまま、欠けのあるまま、落ち込んだまま、怒りと憎しみを抱えたまま、赦せないでいる心のまま、


そのままの心を裸にして、開かれた心、オープンな心、正直で、素直な心で、ありのままの自分の姿で出て、聖霊様と相互に会話することです。


これら一連の神様によるお取り扱いが、神学校における私の卒業論文のテーマ「聖霊の満たし」に導かれたのです。


23歳の時、愛知県のリバイバルクルセードの集会において、聖霊様によって、申均賢(しんけんきん)牧師の按手を通して、一時的な聖霊様の力の恵みを受けたものの、その恵みから落ちてしまいましたが、


聖霊様は、その後、私を、「聖なる神様のご臨在の御前において、私の罪を明らかに示され、最初は、抵抗し、反発し、抵抗しましたが、神様の慈愛の恵みによって、罪の同意の告白」に導かれ、


次に、「愛なる神様のご臨在の御前において、愛される資格も、価値もない、ふさわしくない私が、神様の恵みの愛で愛された体験」に導かれ、


更に、メッセージテープのメッセージを通して、「聖霊の満たし(継続)を、魂の感情にではなく、イエス様と、聖書のみことばに対する信仰に拠り所を置くこと」に導かれ、


そして、聖霊の満たしの継続のために、書籍を通して、「聖霊様のご人格と、聖書のみことばによる黙想の日々の継続」、「デボーションの日々の継続」によることを、約5年の歳月をかけて導かれ、教えてくださったのです。


聖霊様は、聖霊に満たされることに関して、このように長い期間を通して、私に体験的に教えてくださったのです。


また、これら一連のことは、一度だけ体験することではなく、生涯の間に、何度も何度も何度も体験する出来事です。


聖書の福音の真理と、十字架のキリストの愛に反することを行った場合に、聖霊様からの罪の示しがあります。明らかに、自分に示されていることが、はっきりとわかる罪の示しです。


そのことに対して、自分が加害者の立場としてではなく、被害者の立場に立って、自己を義とし、自己正当化、責任転嫁、弁明、言い訳や、口実で認めようとしない葛藤を通らされます。


やがて、神様の慈愛の恵みに導かれて、神と同じことを言う、神と同意する罪の告白「十字架(イエス様の血)による赦し」に導かれるのです。


そして、神様の無条件の愛で愛される体験に導かれ、


それから、再度、イエス様と、聖書のみことばに対する信仰を拠り所として、


「聖霊様のご人格と、聖書のみことばによる日々の黙想」を通して、聖霊に満たされ続けるという繰り返しであるのです。



ハレルヤ!


閲覧数:29回0件のコメント

最新記事

すべて表示

4.主からの最初の派遣先である小樽の教会における懐かしい思い出(4)

小樽の教会の役員の一人に、M兄がいました。M兄は、私と同じ神学校卒の先輩で、以前には、北海道西部、積丹半島の北東側に位置する古平(ふるびら)町で、開拓伝道をされていましたが、その当時は、信徒として、謙遜に、主と小樽の教会に仕えていました。 現在は、札幌にある、ある教団の二つの教会の兼任牧師として奉仕をしています。 M兄は、当時、家業の魚屋に勤めておられ、日曜日を除いて、午前4時から午後1時まで仕事

3.主からの最初の派遣先である小樽の教会における懐かしい思い出(3)

前回の文章から再開します。 このことがあって以来、牧師の召命感の問題で悩むことはなくなったのです。聖書のみことばと、聖霊様の語りかけによって、解決されたからです。 このことから、未解決の問題は、自我の思い、肉の思い、自問自答では、決して解決しないこと。 神様に問いかけ、神様からの答えである、聖書のみことばと、聖霊様の語りかけをいただくこと、神問神答で、未解決の問題は、最終的に、終止符を打つことを学

2.主からの最初の派遣先である小樽の教会における懐かしい思い出(2)

前回の最後の文章から再開します。(前回の最後の文章に加筆をしています) そのように(私は、牧師として、本当に召されているのかということに)悩むようになった要因の一つは、北海道の神学校の教師や、外部から来られる講師などの先輩牧師と比較して、自分のあらゆる面における能力のなさ、足らなさ、貧しさを覚えることから来ているものでした。 それと、もう一つは、神学校において、聖霊様とみことばによる、様々な一連の

bottom of page