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9.船舶生活での懐かしい思い出(9)ー船舶生活における過酷な生活のエピソードー

船舶での水上生活は、家屋での陸上生活とは異なり、非常に不便で、色々な面で厳しい環境での生活でした。12ボルトのバッテリー(電力が弱いため、常に充電が必要)はありましたが、私たちが現在使っている100ボルトの電気が通っていないため、照明器具は、石油ランプでした。ガラス製のランプが、石油に垂らした布を燃やす火によって発煙する、すすで黒く汚れると、小さな木の棒とチリ紙(ティッシュ)を使って、すすを定期的にふき取る必要がありました。


 


石炭ストーブが、暖房器具であり、やかんでお湯を沸かしたり、ご飯や味噌汁、料理を作る料理器具でもあったのです。ちなみに、燃料の石炭は、時々、石炭を積荷することがあり、そこから、船のとも(後方)にある石炭貯蔵庫(3か月分ほど貯蔵可能)に入れて使っていました。今思うと、船舶生活者に必要不可欠な燃料なので、船の荷役を調整する事務所の人たちが、それぞれの船舶に配慮して、石炭を積荷させていたのだと思います。石炭は無料でした。


 


船のおもて(前方)に、水を入れる大きな貯蔵タンクがあって、飲料用、洗顔ハミガキ用、洗濯用、料理用などの水を、約一か月分ほど貯蔵することができました。洞海湾の岸壁にある水道の蛇口から備え付けの長いホースを引いて、約2時間位の給水時間でタンクは満タンになりました。水も無料でした。アルミ製のひしゃくを使って、水を飲んでいましたが、とにかく、今、飲んでいる水とは比べられないほど美味かった記憶があります。


 


洗濯は、アルミ製のタライに水を入れて、固形の洗濯石鹸と、洗濯板を使ってしていました。冷蔵庫は、昔、店頭にあった縦長のアイスボックス(その中に大きな一塊の氷を毎日購入して入れて)を利用していました。買い物は、船舶者対象の「うろさん」(若松から小型船に様々な食糧を積んで来て商売をしている人)から買ったり、小柄な母(140cm位の身長、40キロ位の体重)が、片道、1時間位の春の町商店街に出かけました。現在も春の町商店街はありますが、「うろさん」は、船舶生活者がいなくなりましたので、廃業となりました。船舶には、水洗トイレがないため、船のとも(後方)に、取り外し可能の木製の簡易型トイレを使用する時だけ設置して、洞海湾に直接用を足していました。


 


最初の船「船名:三幸丸」(さんこうまる)での船舶居住スペースは、船のとも(後方)の船上に8畳一間だけであったので、敷布団と掛け布団を4枚だけ使用して、頭を前後交互にして8人で寝ていました。この時、長男の孝兄さんは、(株)山九(さんきゅう)での船舶の仕事をしながら寮生活をしていました。


 


長男の孝(たかし)兄さん、(長女の美恵子(みえこ)姉さんは2歳で召された)、次女の佐百合(さゆる)姉さん、三女の勝代(かつよ)姉さん、四女の三子(みつこ)姉さんがそれぞれ結婚して、両親と次男の生治(せいじ)兄さんと五女の洞海(きくみ)姉さんと私の5人での生活の時には、別の船(船名:410丸)に乗り換え、その船舶居住スペースは、船のおもて(前方)の船上に4畳半一間、船下に8畳一間、船のとも(後方)の船下に、6畳一間であった。船のともの船下には、最初、次男の一人部屋となり、次男が高校卒業後、横浜に仕事のため出て行くことになり、私が中学生になってから、私の一人部屋となったのです。


 


船舶の仕事は、定時ではなく、午前8時~午後5時(甲番)、午後1時~午後10時(乙番)、午後10時~午前7時(丙番)までの三交代でした。午後10時からの仕事の場合は、特に大変でした。翌朝、登校しなければなりませんが、寝ている間中、クレーンを使って、鉄くずの音がガシャーン、ガシャーンと聞こえ、そして、船も少し揺れたので熟睡できず睡眠不足気味でした。更に、学校の登校、下校時に、外国船から船舶に向けて垂れ下がっている20m位の縄梯子を上り下りしなければなりません。途中で、手がすべって落ちたら即死です。


 


船舶の仕事の関係で、新港(しんこう)という遠い場所に行く時がありました。その時は、朝4時頃に起きて、その港で働く労働者の人たちと同じ無料バスに乗り、そして、有料の路面電車に乗り継ぎ、そこから徒歩で、8時前に平原小学校(現在は、皿倉小学校に校名変更)に到着しました。帰りは、夜8時頃に船舶に戻りました。


 


今思うと、「よくもまあ、こんな生活に耐えられてきたものだ」と思います。このような不便で厳しい船舶生活を15年も耐え続けられたのは、一体何だったのだろうかと思います。それは、一つ目は、水上生活を共にする家族や親族やその他の家族との関わり、同じ仲間意識があったから、耐えられたのだと思います。水上生活者だけにしか味わえない、理解しえない喜びも楽しみも、苦しみも辛さも共に共有することのできる家族、親族、船舶仲間の存在がいたからだと思います。ちなみに、次女、三女、四女の夫たち「次女から順に義兄の松崎敏顕(としあき)兄さん、寺本邦明(くにあき)兄さん、山井英明(ひであき)兄さん」は、みな、船舶生活者出身です。彼らもみな現在は、北九州市(次女と三女)と愛知県(四女)での陸上生活者です。


 


二つ目は、不便で厳しいことよりも、船舶生活での喜びに目を留めていたから耐えられたのだと思います。いや、今思うに、神によって目を留めさせられていたのだと思います。家族皆で、チャッカーで、月に1~2回の頻度で、魚介類を取りにいくのが、喜びで喜びで仕方がなかったのです。また、仕事が休みで、洞海湾に船舶が停泊している時、登校前と下校後に、事務所の裏にある空き地で、船舶仲間の子供たちと、野球、サッカー、陣取りゲーム、缶蹴り、鬼ごっこ、かくれんぼ、おしくらまんじゅう、ダルマさんが転んだ、ビー玉遊び、縄跳びと縄跳びのロープを使ったゲーム、ブランコ飛び競争、虫取り、すもう、2B弾、銀玉を飛ばすピストル、木の棒を使ってのチャンバラごっこ、コマ回し、パッチン(メンコ)、凧あげ、ブーメラン、木の棒とゴムでできたパチンコ、水鉄砲などの遊びなど、遊びに事欠かなかったのです。


 


防空壕もあり、その内部から、江戸時代の通貨の「寛永通宝」(明治時代にも一部、一時使われていたようです)の銅貨を何個も見つけたこともありました。遊びに夢中になりすぎ、事務所のおばさんに、「学校に遅れるよ」と言われたことが何度もありました。遊びが楽しくて楽しくて仕方がなかったのです。登校時、学年毎に、時間のハンディをつけて、学校までの約1時間の距離をマラソン競争をしたことも今では懐かしい思い出です。


 


三つ目は、両親がいつも共にいたことでの安心感であったと思います。しかし、私が21歳の時、父は67歳で召され、また、私が47際の時、母は88歳で召されましたが。


 


クリスチャン生活も同じだと思います。ヨハネ16:33節では、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と言っています。クリスチャンにとって、苦難に耐えられ、打ち勝つ秘訣はどこにあるのでしょうか。苦難に耐えられ、打ち勝つ秘訣の一つ目は、クリスチャンにしか味わえない、理解しえない楽しみ、喜び、悲しみ、苦しみを分かち合い、祈り合い、支え合う、父なる神、十字架と復活のキリスト、助け主聖霊、聖書のみことばに対する信仰を共にする神の家族の共同体の交わりです。第一ヨハネ5:4~5節「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」


 


ヘブル10:25節「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」


 


苦難に耐えられ、打ち勝つ秘訣の二つ目に関わることですが、当時の私は、ずっと水上生活で人生は終わるのかと思っていましたが、父の腎臓癌の病気により、片方の腎臓摘出を機に、水上生活者から陸上生活者となったのです。思いがけないことでした。陸上生活者になるとは思ってもいなかったからです。ずっと水上生活が続くと思っていましたが、そうならなかったのです。つまり、15年間の期間限定であったから耐えられたということです。そして、水上生活から、陸上生活に移ったのです。その時の喜びは、ことばに言い表すことのできないほどの大きな喜びでした。でも、どちらも、この世での一時的な生活です。 


 


苦難に耐えられ、打ち勝つ秘訣の二つ目は、罪とサタンと死とのこの世の支配下にある世知辛いこの地上生活から、やがて、復活のからだを着せられて、全き愛と喜びと平安の永遠の御国でのはっきりとした確かな天上生活が約束されている霊的喜び(希望)が与えられていることです。水上生活者から陸上生活者、そして、最終目的地は、神の国、天国での永遠の天上生活者である。水上生活から、陸上生活に移されただけでも大きな喜びがありましたが、この地上生活から、天の御国での永遠の天上生活に移された時の喜びは、どれほどのものか、ことばで言い表すことは不可能なことです。


 


ヘブル11:16節「しかし、実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」


 


苦難に打ち勝つ秘訣の三つ目は、それは、いつでも、どこにいても、どんな時でも、三位一体の神様が、永遠にいつまでも私たちとともにいてくださるということの完全で絶対的な安心感、インマヌエル(神は、私たちとともにおられる)という愛ではないでしょうか。肉の父は、私が21歳の時、67歳で召され、肉の母は、私が47歳の時、88歳で召されましたが、三位一体の神様は、永遠にいつまでも私たちとともにいてくださるお方です。


 


マタイ28:20節「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」


 


Ⅰコリント13:13節「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」


 


イエス・キリストの十字架と復活の福音を基とする神の家族による共同体の交わりの信仰(聖霊様とみことば依存)、復活のからだを着せられて、天の御国に移される希望(復活と天の御国を待ち望む喜び)、そして、いつでも、どこにいても、どんな時でも、永遠にいつまでも変わらずに、三位一体の神様が、私たちとともにいてくださるという愛(完全で絶対的な安心感)によって、苦難に耐えさせ、打ち勝つ恵みを与えてくださる三位一体の神様に。


 


ハレルヤ!

 
 
 

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